最近見たもの

最近見た映画やアマゾンプライムを怒涛の長文・駄文・散文でお届け。


Ink

監督:Jamin Winas

B級映画ではあるんだけど、しっかり世界観を醸し出している佳作作品。
むやみやたらに大金つぎ込まずとも、観客に想像力を喚起させることができれば自ずと土俵に上げることができることを示している。
撮りたい映画を撮る感じが伝わってきて、僕もやってみたくなる。やらないけど。

良い夢、悪い夢、夢遊病。
夢というのは自分の無意識下から起こるものではなく、何か外の力が働くことで良くも悪くもなるという視点。

良い夢をもたらすものは、どこかヒーローズを思い出す。それぞれ個性的なキャラクターで、作中はそれぞれにスポットはあたっていないが、外見も様々。少女を守ろうと、みな懸命に戦う。
一方、悪い夢をもたらす者というのが悪の組織結社的で面白い。みな画一的で個を持たず、親玉が君臨し、その意思により不気味に団体行動をする。社会主義的をモチーフにしているのだろうか。
謎の男、サイン。少女をさらい、悪の結社に渡そうとする。後悔、羞恥心、罪の意識、それら全ての痛みから開放し無に帰するため、少女の魂が必要なのだ。

ようは世界観に引き込めば良いのだ、ということを教えてくれる。
世界観の説明はほとんどなく、セリフとして商店があてられているのは父親であるジョンの過去と現在。
妻との恋と出会い、娘が生まれ幸せな日々、仕事での成功と家庭を顧みないまま妻を失ってしまった後悔の念。
ジョンに与えられたチャンス。

Inkとは、いつか後悔した日に戻れたら、違う選択ができたかもしれない。
自分を見失うほど痛みに包まれた男が、自分の娘を救うお話。


天元突破グレンラガン

"無理を通して、道理を蹴っ飛ばすんだよ!” というセリフが妙に頭に残るアニメ作品。
アマゾンプライムってんのは罪なやつでちょっとばかし誘惑に負ければあれよあれよと作品にひここまれていく。
物語は地下で暮らす人間の話で、それぞれ別々の地下を村として生きている形態をしている。
ひょんなことから地上に出たブラザーが怒涛の快進撃を見せるスペースオペラ作品。
アニメっていうのは無限の世界が広がっていて現実を忘れるには手っ取り早い手段である。
非現実的なものもあれば現実に風刺をするものもあって幅広いのだけど、本作は非現実的だけどもそれをロマンで突き破る引力ある作品。
アマゾンプライムというのはこういう作品とたまたま出会わせてくれる(しまう)引力があるのが恐ろしい。


ララランド

言わずもがな巷で話題の映画。
開始数分で、2度めの視聴である隣の妻からすすり泣きが聞こえてくる。
完全に置いてかれている感と、オープニングから唐突すぎるな歌全開でしばらくタモさん気分。

内容に言及するとネタバレなので伏せておくことにして、ツッコミどころはいくつかあるものの、人は夢を見ずにはいられないってことかしら、という感想。
「人の夢は終わらねえ!」ってのはワンピースに出てくる黒ひげのセリフだけど、ここで言う夢というのは、むしろ妄想という意味に近い。
もしかしたら観客は、似た妄想を抱いたことがあるかもしれない?

そんな感想を言うと、妻はララランドにはそうした意味が含まれていると教えてもらい合点する。
こんな意味があるようだ。

"La La Land" には次の3つの意味があります:
カリフォルニア州ロサンゼルス(*)
現実離れした世界、おとぎの国
現実から遊離した精神状態


監督はもともとこの映画を撮りたくて、無名であるがゆえに出世作を作る必要があり、あの「セッション」を作ったそうな。(妻談)
なんでミュージカルという手法を使ったのだろうと鑑賞中想像をしていたけど、上の意味で合点が言った。
しかし本作で何よりも触れておくべきは男優のライアン・ゴズリングだろう。
映画「ドライブ」を見てその筋の良さは誰しもが認めるところだと思うけど、本作でもそのキャラが生きている。
ドライブほどでないしろ寡黙で一途で献身的で紳士的でありつつどこか哀愁を漂わすナイスガイなのだけど、そのくせちょっとチャーミング。
こう書くと恋する乙女かとツッコミをもらいそうだ。
何にせよ、本作はライアン・ゴズリングに焦点を当てて見て良いと僕は思うのだが、それは男性側の意見だろうか。


プロデューサー

ほどなくして見たのは同じくミュージカル映画。
これまたアマゾンプライムが僕の生活リズムを壊す。
ララランドで呆けた後にプロデューサーを見ると、いよいよ本作が輝き放つ不思議を味わう。
ミュージカルの妙をきちんと映画化していて、時代設定や配役含めてセンスの良さが光るのが印象的。
なんだかミュージカルというのは古き良き時代に生きる古典的なものかもしれないとい気さえ起きてくる作品だ。



ガタカ

遺伝子によって人の優劣が管理され、自然な出産とは即ち人工授精による優秀遺伝の選別である時代。
遺伝子による出生が管理され、企業採用も遺伝子の優秀度合いによって評価される時代。
人種も国籍も関係なく、全ては遺伝子が優秀か否かによって決まる世間。
法律によって遺伝子差別は禁じられているが、建前であって実質は遺伝子の優劣が社会的成功を左右している。

なにこれ面白い。
遺伝子検査が進んだ社会は間違いなく近未来なのだけど、本作の風景はどこか昔の未来あるいは少し昔の時代がベースになっていて、レトロ感を免れず、まるでパラレルワールドを見ている感覚に陥る。
多少なりとも出生前検査による遺伝子検査が用いられている現代に対する警告音なのだろう。
その先にあるのは合理主義に陥り文明の発展もなければほとんど無機質にも近い世界が待っている。
その中で自分を偽ってでも科学的に決められた運命に抗い、可能性と未知への渇望にかけた男の挑戦を描いている。
監督が伝えたいのは、人の可能性であり血の通った希望のことだろう。
科学は可能性を広げてくれるのだけど、その道を進むのは今のところ人以外にいないし、その人が立脚しているのは決定論的な科学によるものではなく、可能性を信じる人間的な希望なのだろうし、本作ではそうした科学的秩序に全てを支配された世界で終わるという結末ではない。

これを見た観客がどちらに立つかはよく観察した方が良い。
程度の話に置き換えればそれまでだけど、遺伝子検査を突き進めれば、塩基配列で人の一生が決まるという科学的宗教を信仰することになる。
確かに検査の結果障害を持つ子供が生まれると言われた時に、この先の苦労を覚悟できるかという問題が生じる。綺麗事を言えば命の選別は人の立ち入る領域ではなく、その検査は確率論であるし、実際に障害に関わらず生まれてくる子供は、誰でもない自分の子供であることに変わりはない。
この先、生まれるであろう想像上の苦労と、いま生じている命の灯火を消すことに、どれほど等価の価値があるのか。
一方で、優先すべきは妻や家族の健康と幸せであり、まだ目に見えない細胞レベルの命の灯火に実感も湧かなければ、その全てを背負って困難が予感される未来に一歩を踏み出す必要はない、という選択もある。
これは善悪の問題ではなく、どのような選択をするか、ということを問うている。

作中の主人公は夢を現実に叶えた。健康であり自分を欺いてきたものの、結局は幸せを手に入れている。(しかしその幸せも犠牲の上に成り立っているのだが。)
現実はもっと過酷なかもしれない。
五体満足でなければどうだろう。体を支える器具が必要だったら生活はどうだろう。
呼吸器系や視力や聴覚に疾患があれば常に医療器具が必要かもしれない。
内臓系に疾患があって、常にベッドの上にいる必要があるかもしれない。
それが出生前検査で分かっていたらどうだろう。
それでも幸せと言える人と、その前に心身ともに衰弱してしまう人は、どちらが多いのだろう。

個人主義の極みはすでに現実になっている。世の中綺麗事だけではやっていけない。
それでも人の可能性を信じたいのだ、というメッセージをそこから受け取る。
そうした感情の性質もDNAの塩基によって決まっているのか、皮肉にもエンドロールには塩基のアルファベットが色反転されているのが徹底している。



とまあ取り留めなく書いてみる。
ちなみにララランド以外はアマゾンプライムて見ている。
嗚呼、麗しのアマゾンプライム。
恐ろしや。

コメント