ともだちにはなれないな

宇多田ヒカルがアルバム「Fantôme」をリリースしましたね。
まだ買ってないですけど欲しい一枚。
アルバム発売前にたまたまNHKでこのアルバムが特集されていて、収録曲を披露していたことを発端にアルバムが気になる日々を送っています。
欲しい欲しい。1-clickで買えるこの時代は落とし穴(?)があちこちあり欲との戦いが尽きない日常を送っているものの、そのNHKの映像でなんとなく耳に残っているのが「ともだち」という一曲。

歌詞としては気持ちを打ち明けられず叶わない片思いの歌を歌っているものであり、そしてこれは番組内でも宇多田氏が語っていたように、同性愛者の気持ちを表現している歌でもあるのです。

「片思い」と聞いて何を連想するか。
女性が、あるいは男性が、それぞれ異性に対して抱く恋心、その様子を僕らは想像します。
あるいはそこに学生時代という未熟で淡く、だからこそ純粋な気持ちそのものを思い出すかもしれない。

しかし「同性愛」というキーワードがそこに入り込むと、事態は一変する。
複雑さを内包した、社会的な困難を帯びた険しい道であるかのような様子に変わるように思います。

まず僕の立場を明らかにしておくと、同性愛者に告白されてそれを受け入れる性質は持っていません。
想いを一方的に伝え、断ってもなお向かってきて次第にエスカレートするのは異性も同性も相違なく有害であるとさえ言える。
そうではなく、ただ同性の告白とだけで有害と誹ることには同調はできないです。
人類の繁栄を目的として子孫を残すという目的の下では、全体最適化にはそぐわない存在かもしれないけれど、個人の幸福を最大化することが社会の繁栄に繋がるのだという考え(個人主義的な物言いになったけど)に立てば、同性愛者の存在をないがしろにしていいわけは無くなります。
さらに付け加えれば、社会は弱者にとって寛容であって欲しいと思うからこそ、同性愛者の存在を認めるべきではないかという立場ではありますね。

事実、LGBTという言葉が巷で反乱してきたように、社会的にはそうした性的マイノリティーの存在は日に日に、昔に比べれば認知・強化されてつつあり、社会的に虐げられてきた立場の人々をいくらか救済できる下地ができてきたのでは、という感もありますよね。

一方で、カトリック(最近は変化?)もイスラムも共産主義も、各々原理主義の方々は生物学的に同性愛者を認めない傾向があるように、子孫繁栄には合理的でないという価値判断もあるのだろうなぁとも。

僕のLGBTへの基礎的教養はGleeに端を成す部分があったりなかったりしますが、とにかくなんだか話がずれてきた。

要は、この歌を聴いて、以前あった事件を思い出さずにはいられない。

「同性愛暴露され自殺」=両親が一橋大と同級生提訴-東京地裁

一橋大・ゲイとばらされ亡くなった学生 遺族が語った「後悔」と「疑問」

子孫繁栄も大事ではあるけれど、社会として哀しみの総量を減らすという軸を持つのも一つだよなぁ、というのを考えながら、曲を視聴(!)したりする。

CD買っちゃおうかなぁ。


追記:
こんなことを書いている一方で、叶わない片思いにおいて困難の中で命を落とすという悲劇は悲しくも物語性という一面を感じる部分があるクズっぷりが自分の中にはあるんだよなぁ、と思う。

達成する喜びの先に手に入れる現実よりも、叶わないまま終わる夢うつつのままの美しさ、というか。
素っ頓狂なことを言う覚悟で書けば、日本の純文学にしろ、そうした滅びの文化は日本古来にある文化資本であり、西洋文学にある生への美学の態度が違うのだと感じる事もしばしば。
だからこそ僕はこの歌が持つ悲劇性に悲しさを覚える一方で、叶わないからこそ生まれる尊さをも感じるのですよね。

滅びの美学に照らし合わせれば、東京オリンピックというワンダーな事件はもはや喜劇に転じる様相ですよね。
もしも、超高齢化社会に向かっている日本が持つ構造がそれに対応できないままならば、滅ぶ事は自明であるので、いっそ滅びの文化的に東京オリンピックは日本の最後の「花火」なのかもなぁ、とか考えない事も無い。
なぜならその先の希望が具体的に思いつかないから。

だからこそ市民は政治へ持続的に参加しろ、って話ですよね。

と書きながら…お酒を呑みながら書く記事にはロクな事が書かれていないんだよなぁ。。




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