フランケンシュタイン

"もはや太陽も星も見えず、風が頬をかすめるのも感じることもない。光も感情も感覚も消える。おれはそんな状態に幸福を見出すのだ。"

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)


著:メアリー・シェリー

蝉は鳴けども肌は寒し。

あっという間に8月も終わろうとしている時節、みなさま如何お過ごし?
相変わらず、ちょっと油断すれば放置プレイのブログにここらで久しぶりの読書感想文を投下。

まず、フランケンシュタインと聞いて何を思い浮かべるだろうか。
きっと、頭にネジが刺さった巨大なゾンビ風の怪人に違いないだろうし、それが世間一般的なイメージなんじゃないだろうか。
僕は原作も映画も見たことがなく、フランケンシュタインというものを最初に知ったのは幼少の頃のドラゴンボールだと思う。
レッドリボン軍という悪の組織が改造した人造人間8号、通称「ハッチャン」は、怪力を持つ強力な敵として登場するのだけど、心は優しく温かく純粋な人物で、悲しい過去を持ち、争いを嫌い、主人公の悟空と仲良くなるという善人なのである。
これは「人を見かけで判断してはいけないよ」という道徳的な教えも持っており、一方で、あんなにも強面なのに心は優しいというギャップに、普通の優しい人に抱く好感のそれよりも良い印象を持ちやすい、という心理的作用を後から学んだりもした。いわゆるギャップ萌えというやつだ。

前置きが長くなったけど、フランケンシュタインというイメージには怪物的なものと、善良な心と、悲しい背景、というものが含まれているのが僕の中の像だった。

しかし、原作は頭からそれを否定しにかかってくる。
なぜなら、そもそもフランケンシュタインは"怪物"じゃなくて"博士"の方だから。

えっ!そーなの!? という位、軽く衝撃を受けた。
あんなにも知られているフランケンシュタインという名前は怪物の名前ではなく、しかもその怪物自身は最後まで名を語られることがない悲しさ。

なぜ名前が呼ばれることが無かったのか。

この問がもうすでに悲しみを帯びている。
そう、この原作は読めば読むほど悲劇と絶望が加速する、ある意味鬼畜の所業が詰まっている。
何が憎くて登場人物にこんな苦しみを与えるのか。
まるで容赦がないし、救いもない。
この救いの無い感じは車輪の下を思い出す。

しかしこの喜びや楽しさへの予定調和のなさというか、むしろ徹底的な絶望に向けた予定調和が、かえって物語の彫りを深めテーマ性を浮き彫りにするのだろうか。

科学における生命倫理、幸福からの転落劇、アイデンティティーの形成、善と悪の葛藤、生の苦しみ、親と子の関係、などなど、色々な角度から物語を読み取ることができるのは、本書が古典であり、生に対する本質的なものを抱いているからなのかもしれない。

うだうだと書いてきたが、結局のところ、"怪物"は生きる理由を求めていたのだと思う。

人は生きるう上で、自分自身への肯定感が必要だ。
ただそこにいるだけで不安になるのは自己の肯定感が薄い人であり、常に不安や恐怖と戦うことにもなる。
肯定感というのは人により強弱様々だけど、成長過程である程度の肯定感が育まれ、人格形成に大きく作用するのだと思ってる。
この内的要因で僕らの生は内的に支えられ、精神が安定することができている。

しかしこの肯定感が得られなかった場合、あるいは次々とそれが失われていったとき、人はどうなるだろう。
そうしたことを本書では書かれているように思う。
内的な肯定感を失った時、人は外的要因でかろうじて生きていくのだ。

周囲と才能に祝福され肯定感に溢れた「持つ者」と、生を受けた瞬間から肯定感を奪われ孤独を強いられた「持たざる者」。
前者は後者により人生を一つ一つ奪われていき、後者は奪うことでしか生きる理由を見いだせなかった。
物語が進むにつれ、両者の生きる理由が悲劇と共にある一点に収束していく。

その因果は悲劇の舞台に立つ演者が全員退場することでその幕を引くのであった。



少し蛇足になるけど、最近の調査で、日本の高校生は肯定感が低いというアンケート調査がある。

「自分はダメな人間だと思うことがあるか」との質問に「とてもそう思う」「まあそう思う」と回答した生徒の割合は、日本は72.5%だった。中国(56.4%)、米国(45.1%)、韓国(35.2%)を大きく上回っており、自己評価の低さが浮かんだ。
 また「人並みの能力がある」と答えた割合は、中国と米国はともに約9割に上り、韓国も67.8%となったが、日本は55.7%にとどまった。
(8/28 日本経済新聞WEB "高校生「自分はダメ」7割超 日本、米中韓より突出"より)

内閣府の資料でも、やはり日本の若者は自己肯定感が低いという結果があり、他国と比べて楽観的とは言えずに、悲観的傾向がある結果になっている。

肯定感が下がる要因には、教育であったり人間関係であったり社会不安であったり、様々なものがあるんだろう。
いずれにしろ、肯定感というのは社会的な動物が持つ欲求から来るものだろうから、その感受には周囲の環境に大きく左右されるのだと思う。
この肯定感の低さが、時として自分だけではなく人を傷つけることもあるのだろう。
歪んだ愛国主義であったり、あるいは歪んだ批判主義に走るのは、もしかしたらどこか肯定感が低いことの現れだったりするのかもしれない。しらんけど。

あるいは、貧困の問題と、ネット社会による情報のフラット化を重ねて考えた時、経済的に不安を抱える人がネット越しに自分が体験できない豊かさだとか楽しさというものを眺めていると、決してそれに触れられない自分の環境に、あるいは対象や社会に怒りや憎しみを抱くかもしれない。
はたまた、ネット上でよく見られる誹謗中傷や炎上事件を通して、他者の不寛容に毒され、悲観的になっていくのかもしれない。
僕自身はそうした情報に触れた時、「へー、いいなぁ。」位にしか思わないけど、それは心の余裕があるからかもしれない。心の余裕がない環境にいた時に、同じ感想を持つかはわからないし、少なくとも「しねばいいのに」とは思うだろう。

こうして考えると、世の中には割と"怪物"が潜んでいるのかもしれない、と思い知る。
もちろん、いつ怪物に変容するかも知れない、という意味で自分も含まれる。

でもそれは、必ず悲劇の性質を帯びることになる。
なぜなら、本書における"怪物"はもともと善良な精神を持っているという性善説に立った物語であり、作者が人への信頼を表明していることの証明でもあるのだから。


.....と、書き始めると割と長文になってしまった。
本書は多様な解釈が可能な普遍的なものを持っている一方で、怪物の誕生の肝になる材料は伏せたままだし、怪物が言語や生活習慣を覚える過程や、そもそも性善説に立った人物像の描写等々、ご都合主義な側面がちらほら見られる。
そもそもそれ程の知性があるのなら、伴侶を得るという感情に走るのもわかるけど、生身の人間により近づける方法を取ることを考えなかったのか。
主人公に生命を作らせておいて何だけど、見た目を変更するという選択肢が無かったのは、キリスト教的反発によるものなのか、それでは物語が本筋と逸れてしまうからなのか。まぁ後者だろうけど。
ツッコもうとしたら色々ツッコめそうな要素は散らばっているけども、まぁそこはお約束、まずは物語を受け取らないと話は始まらない。


なんだか蛇足だらけの駄文になってしまった。。
こんな長文は誰も見ないということでメモ書きまで。

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