たぬきと宵山

読書の時間が最近少なくなっている。

というのも近代日本史の本をいくつか手に取った後、3冊目にしていよいよ学術的な雰囲気を醸し出してきた内容にたじろぎ、悶絶し、逃亡したのはいつぞやの頃であったか。
尊王か佐幕か攘夷か開国かと賑わいを見せた時期を過ぎ、欧米視察を啓蒙とした国の建設、近代政治の始動、戦争、クーデターなどなど。吉野作造の先見性に脅威しながらも、憲政の常道からファシズムへと移り変わりをみせる様は、今の日本からは想像しがたい。色濃ゆい近代日本の歩みを俯瞰しつつも、いよいよ歴史教科書の考察へと入るにつれて、わたくしの瞼にかかる重力は増すばかり。
そもそも一瞬に盛り上がった興味心から本を漁り読み始めたは良いものの、我がエントロピーは必ずや法則に従って激増することは分かりきっているのだから、むやみに手をつけることを控えなければいけない。読書とはそいういものではないはずだ。
ショウペンハウエル先生もそのようなことで叱責していたではないか。
なんと叱責していたかは正確に覚えていない程度のメモリ領域なのだから、むやみに風呂敷を広げることも宜しくない。既にこの文がどこへ向かっているのかが不明である。

さて前置きが長くなる事は良くある事で、本文に対してこの前置きが何ら意味を為さないことも良くある事である。



"面白きことは良きことなり!"



"藤田君藤田君、西瓜の平等な切り方を君は知ってるか"



近代日本史の本を投げ捨てたところ、森見氏の文庫本が2冊も出ているではないか!
ということでまんまと2冊を読んでしまった。
前者は家族の話である。だが1つだけ普通とは異なっている。それは狸の話であること。
喜怒哀楽を纏った毛玉達が右往左往するお話であり、その実、これは狸の皮を被った人間の話でもある。狸鍋にはならないけれど。
狸界のリーダーを決める神社での演説内容は、狸も人間も変わらんなぁと思ってしまうもので、"阿呆の血のしからしむるところ"というのは何もこの狸達だけではないのは多言を要さない。
"そうか狸が主役ということはいつもの貧乏学生は今回出てこないのだな"と思いきや、そこは氏でありぬかりはない。
しっかり狸が腐れ大学生に変化する。氏の創作領域に鎮座ましましするのは大学生であることは疑いようもないが、もはや一蓮托生の趣すら感ずる。

前者は狸のハートフルお祭り騒ぎであるが、後者は少々変化球のファンタジーだ。狸が喋るのもファンタジーだけれども。
風雲偏屈城の登場に懐かしさを覚えながらも、この物語はいつもの妄想学生喜劇とは異なる、夏の不思議なお話だ。
以前、"きつねのはなし (新潮文庫)"という本を氏は出しているが、それを基調としつつ、いつもの森見エッセンスを途中加えながらも、もっとマイルドに仕上げた感じの物語である。
森見作品を読んだ事無い読者にとって、いまの説明は何一つ伝わらないことと思う。
そんな声に耳を塞ぎつつ、amazonを眺めていると美女と竹林の単行本が出ているではないか。
次の森見作品はこれを読もう。

最後までこの文体が続いたのは何故だろう。
そんな事を思いつつ、2冊とも森見さんを知らずとも楽しめる。
風雲偏屈城が気になる方は、"夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)"をご覧あれ。



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