ばあちゃん

うちの母方の祖母、ばあちゃんは実家に親と同居していた。
認知症で、普段はデイサービスに通うばあちゃん。
家にいるときはほとんど寝ている状態で、言葉もあまり喋れなかった。
でもニコニコとよく笑う、笑顔のばあちゃん。
そのばあちゃんが、先日他界した。

(以後、乱筆乱文ダークサイド for 俺)



一時心肺停止になるも蘇生し、昏睡状態が続いていた。
知らせを受けて会いに行った時は集中治療室で限られた時間だけしか会う事ができなかった。
そして先日息を引き取った。

俺は随分前から、どこかで受け止めていた。

動かなくなったばあちゃん。寝顔は安らかなんだ。
その寝顔を見て、俺はどこかでこの事を前から受け止めていたのだと感じた。

三味線のお師匠さんで、よく三味線を弾いていた姿。
お茶が好きでお茶を入れてはよく飲んでいた日常。
昔、ばあちゃんちでは駄菓子屋をやっていて、もんじゃ焼きもやっていたという思い出話。
認知症になり、だんだんと喋る事も怪しくなっていく。
三味線を弾く姿も、自分でお茶を入れる姿も、そして思い出話も。
昔のばあちゃんが一つ一ついなくなっていく。
だんだんと見慣れては、少しずつ、薄くなっていく俺の気持ち。
その時から、受け止めるのと同時に、俺は俺の中のばあちゃんを死なせていたんだ。
少しずつ、ゆっくりと、時間をかけて。

告白すれば、蘇生した時、もしかしたら、そのきっかけでばあちゃんと会話できるかもしれない。
そんな、テレビドラマの様な、浅はかな事すら考えてしまった。
俺は俺の中のばあちゃんを死なせて、その"余裕"から下らない妄想までするに至ってしまった。

ばあちゃんともう一度話したかった。
思い返すと、もう一度謝りたいことだってあった。
その一方で、おばあちゃんの死を前から受け入れていた俺もいたんだ。

死んでいるのは俺の方かもしれない。
感覚が薄まり鈍感になっていく、脆弱で矮小な俺の精神。
これが老いなのか。

棺を持ち上げたときの軽さ。
斎場に泊まった夜の静けさ。
骨箱を持ったときの小ささ。

やっぱり俺は、随分前から、受け止めていたんだ。

人は熱を失ったときに死ぬのだろうか。
それとも記憶を失ったときに死ぬのだろうか。
俺は、俺の観念がばあちゃんを死なせたんだ。今はそう思う。


9月に行う四十九日、じいちゃんと同じ墓へ、ばあちゃんを納骨する。
じいちゃんに先立たれ、その後も元気で94歳を迎えるぐらいエネルギーあるばあちゃん。
じいちゃんとやっと再会できることに、ばあちゃんはきっと喜んでいるんだろう。

そう思えるくらい、俺は鈍感で、ブログに書き綴れるほどに、俺は脆弱なのだ。

俺は未だ俺自身を受け止められていない。

ばあちゃんの最後を看取ったのは母親だ。
毎日ばあちゃんの世話をしていた母親。今は休んで欲しい。残る気持ちはそれだけなんだ。

乱筆乱文ご容赦。

コメント