翔太と猫のインサイトの夏休み

"よくわからないところにあまりこだわる必要はありません。むしろ、自分にとってよくわかる問題を考えぬいてみてください。"

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)

著:永井 均

中学二年生の翔太と、猫のインサイト。
「ぼくらみんな、ほんとうは培養器の中の脳味噌にすぎないんだよ。そういうことってありうると思う?」
どういう訳だかインサイトは翔太にそんな問いかけをする。
そんなインサイトと共に、夢、心、正しさ、存在、死、などといった事柄を、翔太が見た夢や彼の疑問を皮切りに議論される。

翔太と猫が議論する本だけど、それで終わりじゃもったいない。
マイケル・サンデルがハーバード白熱教室で生徒と同じ様な(というか正義についての)議論をしたように、猫のインサイトが翔太の白熱個人授業で前述のキーワードを議論する。
(本書は95年に出版されているので、その頃から白熱教室があったか分からないけど。)

この後に読んだ本「ソフィーの世界」に対して永井さんは、あんなの嘘だ、哲学ブームも嘘だ、と言ったらしい。
「嘘だ」というのは、「哲学的ではない」という意味だ。
思想史と哲学は違う。「思想」という結果だけを受け取っても何にもならない。
問いを立て考えること。考え抜くこと。そこから出てきた考えがあって、それをはじめて「哲学」と呼ぶのだ。
永井さんはおよそそんな事を言っている。竹田さんも同じこと言ってたな。
そういう意味では、俺は本書を「読めていない」 もう全く絶望的にこれっぽちも「読めていない」
ちょっと考えるぐらいじゃ全然哲学じゃないんだ。
でもこの本の示す点の重要な一つに、「範囲」があると思う。
範囲と呼んでいるのは、考えて良いところとから、そこで留めて良いところまで。注意とも呼べるかな。
そういう例を、本書では挙げている場面がある。
そこでインサイトは、「比喩的に拡張された懐疑論は空虚になってしまう」と言う。
例えば、見えて、さわれて、なめられても、それでももしかしたら実在しないかもしれない、って疑うと、もう何でもありになってしまう。
推論をすすめるのにもそうして注意を自覚していないと、あらぬ方向へいってしまう。
この注意を自覚する事は重要なように思える。それを逸脱すると詭弁になってしまうからね。

ということで哲学がしたければ本を読み進む前に問いに対して考えてみましょう、という本。
続いて永井さんが「哲学的じゃない、ただの思想史だ」と言うソフィーの世界の本をご紹介。(次のエントリーへ)

コメント