スピノザ入門

"私たちは、なにがいいと判断するからそれを求めるのではない。反対に、それを求めているからこそ、そのなにかがいいと判断するのである"

ニーチェの先輩というか、先駆者的な人とも言われるスピノザ。
著者エチカが有名だが、俺は全然知らなかった。
「エチカの鏡」ってTV番組があるけど、関係あるのかな。見た事無いけど。
そこで次の2冊を読書。

スピノザ―実践の哲学 (平凡社ライブラリー (440))

著者 G.ドゥルーズ / 翻訳 鈴木 雅大

スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)

著者 上野 修


スピノザは"最高善"を求めて"生"について哲学した人で、その哲学には"神"があった。

力への意志だったりニヒリズムだったり、ニーチェ臭がちらちら香るけど、時代を考えればスピノザが先なのでむしろ先駆けということになる。
"神"という言葉を聞くとイコール、キリストを連想しがちだけど、スピノザ自身は無神論者だったとのこと。
"この世"とか"宇宙"程度に読み替えた方がいいのかな。

後述するけど著作エチカは証明の本で、言葉の定義が数多くされている。
もちろんエチカを呼んだわけじゃないんだけど、ジル・ドゥルーズさんの本 第4章に概念集が解説とともに本の半分ほど使って書かれている。
ご賢察の通り、途中ですっかり4章は飛ばしてしまったけれど、概念を正確に知るのはもちろん、エチカを読もうとする時には便利な項目だろう。
読み返す際は4章を把握して精度を上げたい。

スピノザは有徳な無神論者だったと言われているようだ。
そんな彼が考えた世界は何なのか。以下俺メモ。





"事物について何かを肯定したり否定したりするのはわれわれではない、事物自身である。事物がわれわれの中で自分自身について何かを肯定したり否定したりするのだ。"
という言葉から、事物から生まれるものが起点となる。続いて、スピノザは目的を設定する。
まず、目的とは衝動のことである(逆は言えない。)とし、またある事物が自己の有に固執しようと努める力 を コナトゥス と呼んだ。
これがないと事物がそのものでなくなる。現実的本質でもあるもの。
このコナトゥスは自然の活動力の一部で、これが衝動である。衝動は目的に向う源泉なのだ。
この衝動に意識が加わると、欲望となる。
スピノザはそう考え、また生きる上で最大の欲望に対する答えを探す旅に出る。
最大の欲望とは、最高善の実現であるとして、以下2つを設定した。

最高善:自分の本性よりもはるかに力強いある人間本性を享受することであり、それを出来る限り他の人々と共有すること。
真の善:最高善に到達するための手段全て。

こうしてスピノザは、人生を"生"の哲学に捧げる旅を始める。

そしてその集大成とも言える代表著書、「エチカ」で彼はそれを見つける。
エチカはユーグリットに習いその哲学を幾何学的秩序で証明しようと試みた。

"よく理解できない観念は脇において明晰判明な観念、すなわち別様ではありえないという思考だけを相手にし、それだけどを頼りに順序良く解決して行く"

2+3=5 という自明のもの、真なる観念の存在は、すでにそこに「真なる観念」が与えられているとして、方法は真理から自生するのであるという姿勢から、先の言葉の通りエチカで証明を進めて行くのだ。まるで霊的自動機械と化すように。
それは、精神自身が事物に還るだろう。そうスピノザは考えていた。

スピノザ哲学は"実体"にはじまる。
デカルトから実体を受け継ぎ、スピノザ哲学で実体をこう語った。

"実体はただ一つである。
それが無限に多くの属性をもつのだということ、神とはこの自然そのものであり、いっさいの被造物はそうした属性のとるさまざまな様態、すなわちこの実体の様態的変様にすぎない。"


もう先に言ってしまうと、全ては神または自然から生まれるものであり、いまそこに現実に存在している事が永遠なのだ。
そして浮き世の全ては必然なのである。
そんなことを言っている。

キリスト教世界では異端とされる思想。
創造者、超越者、また道徳的な神の存在は否定されたこのスピノザ哲学のテーゼ。
当時このスキャンダラスなテーゼにより、当然の如くスピノザは罵倒し憎悪されたらしい。
ジル・トゥルーズに習い、ここではその発端となった三重の告白である、「意識」「価値観念」「悲しみの受動的感情」について以下に記す。

「意識」
スピノザの並行論から観念の観念というのが発生するんだけど、観念の観念は意識とされ、この意識は衝動の過程で、いわゆる高次の全体に対して生じるものであると言う。
一方、「原因→結果」というように、この→の部分は"必然性"を表す。この必然性はキーワードでもあるんだけど、ここで、意識というのは結果しか受け取れないとスピノザは語る。
スピノザが、
知るためには知っているということを知る必要はないが、知っていることを知らずに知ることはできない。
というように、観念の観念、つまり「知っていること」は意識である。
意識はしかし非十全な観念であり錯覚の源である。
「知る」という結果しか受け取れないのにそこに原因を錯覚する。
つまり意識は原因では無知であるのに自分は自由だと感じ意識は身体を支配する想像上の権力を精神に付与する。
(ここで俺はマークトゥエインを思い出す。)
同じ様に、外部から受け取るものを真の目的的原因と思い込み、また自由だとはいえない領域に神の存在を見ようとする。

スピノザは、目を見開いたまま見ている夢にすぎないのだ、と語っている。

意識というものはそもそも考えられているほど高い価値を持った物ではないとして、身体と精神のあいだには一切の実在的な関係を否定する。また意識を超えたところで、身体や思惟があり、すなわち身体も精神もそれぞれにおいて優越なんて存在しないのだ、と言う。
そして、だから身体の観念は存在するとされ、
"精神は身体の変状の観念を近くする限りにおいてのみ自分自身を認識する"
とされる。
デカルトは心身二元論で精神と身体を別々の実体ととらえその相互作用を哲学したが、スピノザは精神と心身の関係ではなくこの実体の属性を考えた。

しかし僕らは先に言ったように錯覚を乗り越える必要がある。
非十全な観念から共通概念を形成していき、十全の観念へと向わなければならない。

ここで共通概念とは、2つまたはそれ以上の体のあいだの構成的合一を、そしてそのような合一にもとづく構成上の統一を表している。この共通概念こそが必然的でまた十全な観念を形成する。
よく生きるために、この共通概念は必然なのだ。

ここから、スピノザは事物の認識について以下の3ステップを提示する。

1. 第一認識:意見もしくは表象的認識
- 習慣的な経験による認識。本当の必然性は知らない。
2. 第二認識:理性的認識
- 必然性を知っている段階。"共通概念"という形で認識している。
3. 第三認識:直感知
- 個物の認識。神の無限知性の一部という自覚から、必然性、永遠真理を直感している。

目指すのは第三段階である。

「価値観念」
ところで僕らは身体を構成している諸部分(構成関係)を持っている。
事と事の間には複合・合一をとげる構成関係が必ず存在していて、適合するときと不適合の時がある。
適合というのは陽の効果で、よいとされること。自ら努め、良い出会いなどから自己の力能が増大する。
不適合というのは陰の効果で、わるいこと。悪しき出会いや食あたり、中毒とも言われ、構成関係の分解を意味する。
つまり僕らは常に何かと関わっているわけだけど、そこから適合して新しい構成関係のもとにはいるのか、もしくは不適合が生じて構成関係が分解されてしまうのか、ということが起きている。
僕らは自らと努めて適合を繰り返す事で、自己の本質の変様をしていかなくてはいけない。
しかしここでスピノザは聖書などを代表にした道徳の法を引き合いに出し、道徳的な法は服従を意味するという。
そこにある命令と理解されるべき事の区別をすべきであるとし、価値の善悪、質的差異に指摘する。


「悲しみの受動感情」
モラルは道徳と訳すが、エチカは生体の倫理と訳す。
ここで言っている悲しみの受動感情とは、際限ない欲望と内心の不安、貪欲と迷信がひとつに結びついた観念複合体のことである。
人間には能動と受動が備えられており、能動とは個体の本質に由来する変様であり、受動とは外部に由来する変様である。
僕らは自分にとって良いと思えることのために活動しているけれど、活動に対してマイナスにはたらくとき、活動力能は減少するか阻害される。このマイナス要因に対応する受動が悲しみの感情であり、その逆は喜びの感情だ。

"悲しみの受動は私たちの力能の最も低い度合いを表している。私たちが最大限に自らの能動的な活動力能から切り離された状態、最大限に自己疎外され、迷信的妄信や圧制者のまやかしにとらえられた状態である。エチカは必然的に喜びの倫理でなければならない。ただ喜びだけが私たちを能動に、能動活動の至福に近づかせてくれる。"

そうして十全な観念を形成するに至る。

エチカとはエトロジーであり、設定した"最高善"を求めることは、喜びを求める事にも繋がるのだ。
自己否定よりも自信に満ちた自己肯定の道を歩むのである。

"なんぴとも、在り、行動し、かつ生きること、言い換えれば現実に存在することを欲することなしには、幸福に在り、よく行動し、かつよく生きる事ができない。"

よく行動するとはどういうことか。それは先に言った、活動力能の減少(わるいこと)ではなく、活動力能の増大(よいこと)をすることである。しかし注意しなければいけない。本質は外にあるのではなく内にあるのだとういことを。

"人間の内的本質を、その外発的なわるい出会いの方にもとめるなどということは、恥ずかしい事だといわなければならない。"

悲しみを含むいっさい、自責の念や罪の意識、死について考える事はもちろんのこと、希望や安堵でさえそこには何がしかの無気力感が含まれているとし、力能の減少に結びつくこれら一切を切り離す必要があるという。
理性は、出会いを偶然に任せるのではなく、自ら努力し追い求め、力能の増大に努めなければいけない。


と、いうように羅列するよう書いて来たけど、エチカでやっている筋道とは全然違うだろうから、いつかそれは読んでみる必要がある。ここに出てきた力能や共通概念をはじめとして様々な定義があるのだが、それは本書で。

スピノザが辿りつく先を、恐れず珍訳すると、以下の感じだろうか。

君は第三認識モードまで至れば、森羅万象を理解し「神または自然」の一部となって、死をも超越する。
そうすれば必然的に神への知的愛が生じ、そこに永遠なる愛があり、魂の平安を手にする。

なんだか凄いことになっているという感じである。
エチカではこれを幾何学的に証明しているということのよう。

ちなみにエチカは次の自己原因の定義から始っている。

"自己原因とは、その本質が存在を含むもの、いいかえればその本性が存在するとしか考えられないもののことである。"

意識はそれを知らない。共通概念を経てそこへ至る。
僕もあなたも世界も森羅万象も。その自己原因はつまり神なのだ。ならば。

周りを変えたいなら自分を変えなければいけないことが分かる。
僕らは世界と繋がっていると思うけど、繋がっている世界はまた僕ら自身なのだ。
その中でよく生きようとするなら、わるいことは退け、自分にとって良い事を努めてやらなければいけないと、事物は語る。
目的はなんであれ、僕らは衝動を、そしてコナトゥスにより表象している。
その衝動が、コナトゥスが、それ自身がそうした方向に向かい保持することが徳である。
それが十全であるならば、僕らは必然を、永遠を、そして神を認識するのだ。

スピノザはそんな事を言っているように思える。
彼は道徳的に、こうすべし、と言うわけではない。むしろ道徳的なことの錯誤を知っている。
事物のただなか、神と私のただなか、それを幾何学的に証明しようとしたのだ。

ジルドゥルーズは、スピノザが捉えた世界の構成をこう語る。

"スピノザのエチカは、ひとつのエトロジーとして、とりうる情動を内在の平面の上でさまざまの速さと遅さ、さまざまの触発しまた触発される力がとげる構成の問題としてこれをとらえている。
粒子群のあいだに成り立つ速さと遅さ、運動と静止の複合関係の総体、各時点においてひとつの体を満たす情動の総体、前者を経度、後者を緯度とすれば、自然というこの内在の平面はたえず変化しつつ、たえずさまざまの個体や集団によって組み直され再構成されながらかたちづくられる地図である。"


俺はこの地図をレンズを通して、望遠鏡から覗いた感じだ。
次にスピノザに戻ってくるのはいつだろう。そして今ここで俺はニーチェ本に立ち戻っている。。

コメント