新しいヘーゲル

"理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である。"

新しいヘーゲル (講談社現代新書)

著者:長谷川 宏

カント本の次にヘーゲル本。
ヘーゲルはカントの隙をつき、また大きな体系を生み出したことで近代最大の哲学者とも言われている。

しかし彼の哲学書は難解とも言われており、こうした初心者本はありがたい。
(哲学全般について同じ事いえるけど!)

でも読んだ後にそれほど興味が湧かなかったのは何でだろう。
と思ったところで一つ思いあたった。
後ほど言うように、ヘーゲルは世の成り立ちを"何か神秘的なもの"に求めたのではなく、社会の網の目に求め、その発展法について哲学した。
それに興味がそれほど湧かないということは、俺は哲学に"何か神秘的なもの"、俺にとって魅力的な"何か"を探しているということか。ふーむ、これは妄想する必要がある。

道がそれたけど、ヘーゲル哲学について遠く遠く眺めた輪郭らしきものの、俺メモを見たければ続きをどうぞ。

(続きはタイトルをぽちり)




ヘーゲルは世界を、人間関係の網の目の総体と捉え、その総体を社会に見た。
世界それ自体の認識を問うのではなく、網の目をなす基本動因とその展開のプロセスから世界を知ろうとしたのだ。

そして社会を成す人が持つ「知」に信頼を置いた。

"理性とは、おのれが全存在をつらぬいている、という意識の確信である。"

理性へ寄せる全幅の信頼があり、「知は力なり」と宣言したベーコンと、ヘーゲルは同志であると著者は言う。

世界のあらゆる領域に留まる事を知らずに突き進む思考の、理性の、衝動を人間は持っている。
カントは経験の外に迷い出た思考は空中戦のごときものだと、自ら空中戦を純粋理性批判で演じ、思考が思考に、理性が理性に、歯止めをかけなければいけないと考えた。人間はモノ自体には到達できないのだと、その領域に線引きしたのだ。
こうしてカントが経験を重んじて思考の衝動に歯止めをかけようとしたのだとすれば、ヘーゲルは思考を重んじて経験の枠を外そうとした。


ヘーゲルのいう弁証法は、例えば次の文が例になる。

"種が否定されて芽となり、芽が否定されて茎や葉となり、茎や葉が否定されて花となり、花が否定されて種となり、こうして有機体はおのれにもどってきて生命としてのまとまりを得る事ができるのだ。"

ここで、ヘーゲルはこれを、種が否定されて芽となる、種の否定が芽である、と考える。
Aが否定されBが出てくる。この対立が変化や運動の原動力となると考えるのが、ヘーゲル弁証法の基本。
そして最終的にその運動がまとまりをもつことを要求し、弁証法の総体性ないし完結性ということになる。

近代社会を個の対立であるとし、そして否定や対立や矛盾そのものを原理とするのが社会だと捉えた。
ヘーゲルには個と共同体が美しい統一を形成していた古代ギリシャ時代への憧れがあった。
そしてその先から近代までの歴史から、個と個、そして共同体が対立する近代社会への発展過程を見たのだ。
そこからヘーゲルは、先の弁証法を考え出した。

そうしてヘーゲルは、彼の体系で以下を考えた。

1. 論理の学
2. 自然哲学
3. 精神哲学

ところでヘーゲル哲学にいち早く鋭い批判を加えた人が2人いる。むしろ本書はこの辺りの指摘が面白い。
キルケゴールは上に見るような、ヘーゲルの感情を克服することにより精神的な成長を遂げて行く、意識の位階性に意を唱えた。
ヘーゲルが低次元と位置している感情のうちにこそ崇高な宗教性が宿る (ヘーゲルは精神の最終段階でそれを考えた ) として、そこに人間心理の真実を見ようとする。
不安や死や病。生はおびやかされ個人は孤独であるとし、そうした絶望的な気分でこの世を生きることにこそ、人間の人間らしさがあると考えた。
ヘーゲルのいう安定や発展に異を唱えたのである。

もう1人はマルクス。
例えばフランス革命の指導理念ともなった人権の思想に対して、ヘーゲルは人類普遍の思想と見なし、自由を求める長い人類史の最もすぐれた精神的成果の一つに数える。
しかしマルクスは反問し、様々な不自由と不平等をかかえこむ資本制社会に行き当たり、自由や平等の階級性を考える。
人権の思想や自由と平等の理念は美しいが、現実のブルジョワ社会はそれに見合う美しさを持てない。ならば思想や理念にたずさわるものは社会のそうした所以をも解き明かすのでなければならないとして、ヘーゲルの理念の整合性、体系性に背を向けて、現実社会の実証的な分析へと歩を進めて行く。学ぶべきところは学び、捨てるべきところは捨てて。

他の主要な批判者にニーチェがいる。そんな感じに、第6章ヘーゲル以後 の項は面白い。

ヘーゲルの考えた哲学。
対立と矛盾のむこうに統一が、混乱と無秩序のむこうに秩序が。
個と個が対立し合う、しかしそれらから成る共同精神は対立から生まれるアウフヘーベンにより、より強い共同体精神へと昇華する。
人は理性により歴史を作って来たのだし、またそれが共同体精神を支えるのだ。
共同体は理性に導かれて、真なる社会へ、世界へ到達する事が出来る。

ヘーゲルはそう言っているように見える。
理性への信頼と、共同体の発展。そこにはやはり、古代ギリシャ時代への憧れと、回帰の願望が少なからずあったんじゃないだろうか。そんなことを思うな。

こうしてヘーゲルは人間や世界の原理を超越的なものではなく、個々の間に求めた。
そういう意味で、それまでの哲学史にあった、神秘的なものとはじめて手を切ったのだと言う事ができる。
(ここは別本、竹田氏意見から引用!)

こうして近代哲学からカント→ヘーゲルを読んでおきながら、今読み終わったのはぐるっと戻ってなぜかスピノザ。
スピノザは別記事でー。

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