人類よ声を聴け

本日、といっても時間的には6/2、NHKにて放送している「爆笑問題のニッポンの教養」
西アフリカのブルキナファソに住むモシ族の、文字を持たない社会の研究をしている、文化人類学の川田順造氏との対談。

唐突だが、モシ族は言葉を持たない。文学を持たない。
彼らは太鼓をコミニュケーションの手段として、相手に感情を伝えている。
一方、いわゆる"文化人"なる世界の国々においては、言葉がコミュニケーションの手段になっている。
だがしかし、感情を言葉におきかえることによって、確実に失われているものは、ある。

例えば、「頑張れ」
対談中に太田も指摘していたことであるが、(俺も頑張るから、)頑張りすぎず、気楽に、でも前へ進んで行くその気持ちを持って、取り組めよ、という、フレーフレーっていう感覚に近い感情を込めて、「頑張れ」という言葉を使う。
しかしこれはおおよそ、使う人にとってニュアンスが違うし、もちろん受け取る人や状況にとってそのニュアンスも変わってくる。
それは「受け取る人の努力に関わる」と太田は言っているが、同感だ。
自分自身、ある時こんなことを言われたことを思い出した。
頑張れ、なんて誰でも言える」
これは深く残っている言葉で、ああその通りだなとその時感じて以来、口にするのをためらう言葉になった。
言葉というのは、「重みがある」と比喩されることが結構あるが、まさにその通りで、重い・軽いと「質量」を持つ。
感情表現において、本来自分が感じている事をそのまま伝えるのだから、重い・軽いなんて受け手の問題であって、しかもそれが言い方によってその質量が変化する言葉というのは、"技術のコミュニケーション"といって差し支えないと感じる。
いくら自分が伝えたい感情を込めたとしても、受け取る人に伝わる気持ちは、もしかしたら1割にも満たずに、むしろ皮肉にすら聞こえることになり得るんだと思う。
そういう意味で、言語を発明したことで、失った部分というものは多く存在すると思う。

しかし一方で、言語が発明されたことで、得たものは多く存在もするだろう。
それは異文化交流(*)であったり、文学であったり文明であったりする。(単語の定義は次の機会に考える)
言語が発明されたことで、絶対的に文明の発達があったことは疑う余地がない。
(*)...プロトコルという言葉が存在するが、異なるモノと相互疎通ある際にはある体系化された約束事、つまり人同士においてそこに言語が存在することが物事を円滑化する第一段階であるだろう。言語による相互理解に比べ、太鼓による相互理解は制限の多さが想像に難くない。
"訳す"ことが同じであると考えたとしても、表現のプロセスとして言語の方が理解の早さも便利さも勝るはず。もちろん、言語に込める感情の表現まで、異文化同士は完全に疎通できないと思うけど。

氏は西アフリカで研究していた時に、妻と会話する時に言葉はいらず、一言二言の感情表現だけで大体は疎通がとれたといっている。
この言葉を受け、一方では同意できるし、他方では同意できない。
これは先入観ある考え方だが、モシ族が生きる環境において、"太鼓によるコミュニケーション"で事足りる環境であるからだと思う。
動物的人間性において、純粋な、本能的な感情表現が全てであるから、太鼓によるコミュニケーションで問題ないし、氏においてもそういう環境におかれて、必要最低限の感情、つまり本能的な感情の作用で、一言二言の世界で事足りたことが想像できる。
他方で、いわゆる文明国に住んでいる人間は、本質は上と同じのくせに、(本当に)幾重もの感情を身にまとい、"言語によるコミュニケーション"、つまり技術による意思疎通によって今日までを重ねて来た。
そしてそこには、両者の違いがありありと分かるが、ありありとありすぎてもうまったく別物になっている。

モシ族の文化は分からないが、生きる上で言語は必要ではないということが分かる。
だからといって言語が必要では無いと言いたいのではなくて、モシ族はじめ言語が無い民族と自分たちを比較することによって、もっと、根本的な何か、違いないし共通すること、もしくは全く新しい点が見えてくるのだろう。
そこから人類の変移を見いだせることが出来るのだろうし、そういう意味で、人類学というのは実に奥深いものだとこの放送を見て感じた。

ヘレン・ケラーがキーワードのように使用されていたが、今度勉強してみよう。
まあとにかく、アルコールを飲んだ夜はこうやって饒舌(饒筆?)になるのは人間誰しも同じだろう、ということで、オヤスミナサイ。

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