breakfast on pluto

「時々ふと思うの。脚が浮き上がり、私は宇宙を漂っている。
                      独りぼっちで。」




主人公パトリック・ブレイドン、自称"キトゥン"は、生後間もなくして捨て子となる。
養子となり育てられるも、幼いころから女装に興味を持ち、いわゆる「オカマ」としての人生を歩むことになる。周りが自分を理解してくれない事への不満と、まだ見ぬ母への想いから、キトゥンは母を捜しにロンドンへと旅立つ事を決める。それは、色濃い物語の始まりでもあった。

まるで一冊の小説を読んでいる、そんな感覚を覚える映画であった。
キトゥンを取り巻き、変化していく環境。
ある時はカントリー(?)歌手との愛を信じ、ある時はマジシャンとのショーを行い、ある時は留置所に収容されて。
しかしキトゥン自身は母と再会する目的を忘れず、何より愛を求めて彷徨っているようでもあるのだ。
しかし時々、キトゥンをクレイジーだと思う時もある。拘留されているシーンがそうだ。
そんなキトゥンであるからこそ、劇中で度々人との繋がりの温かさを感じることがあるのも、どこか嬉しくなる。
キトゥン役のキリアン・マーフィーを見ていると、時々「ブレイブ・ハート」の頼りない王子を思い出すのは気のせいだろうか。
しかし相変わらず神父役のリーアム・ニーソンはナイスミドル(死語?)な雰囲気を持つ。
この人の瞳を温かく感じるのが大きなポイントであり、大好きだ。
「ラブ・アクチュアリー」に出演していたのも印象に残っているが、何より「マスター・クワイガン」の印象が強い。
劇中の神父役でも、偉大なフォースの力を使えてしまいそうなほどだ。

話は変わるが、ごまのすけは、いわゆる「オカマ」に少なからず尊敬の意を抱いている。
というのは、「自分を飾らず、偽らずに、常にありのままの自分でいる」という点。
例え男であり、女装し整形し手術し女性のように振舞っているかもしれないが、「女性でありたい」という自身の持つ願望を、臆する事も無く正々堂々と発している。
劇中にもあるように、世間からの反目や差別、他にも想像できない様々な事が自分へと降り注ぐのだろう。
それでも自分を貫いている、そして自分自身に正直であり続けている。
偽りがないからこそ、真に自身に正直であるからこそ、そこから生まれてくるエネルギーが凄いのだと想像してしまう。
自分に正直でいられない事や、偽ってしまうことにより、本来あるエネルギーを添いでしまっているのではないか。
もっと恐れず、さらけ出す事が必要なのではないか。
その勇気を、「彼女等」は持っているのであると考える。
そして自分はどうだと自問する事になるのだ。

「オカマ」は世の中で最もロマンチストで、最もピュアなのかもしれない。
この映画を見てると、そんな思いを引き起こす。
これはその中の一人、キトゥンの物語。是非味わってみてはどうでしょう。


trailer:




P.S.
やっぱり原作あるね。「アイルランド人小説家パトリック・マッケーブの原作を映画化」だって。
劇中の持つ雰囲気は、音楽が良いのも一つの要素だと思う。
あと、話の中で出てくるIRAとは、Irish Republican Army(アイルランド共和軍)の略との事。

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