"生の是認"
ニーチェ入門 (ちくま新書)
著・竹田 青嗣
難しい。。
ぐだぐだ書いてたら長文になった。恐らく、過去最長なのでは!
ということで、興味のある人もしくはマーヒーな人だけ以下をどうぞ。
(メモの要素が強いため、乱雑なまとめはご愛嬌ということで、、)
著者もまとめているポイントを引用すると、以下3点。
1.キリスト教および近代哲学の「真理」と「道徳」概念の批判
2.「ヨーロッパのニヒリズム」についての根本考察
3.これまでのすべての「価値の顛倒」と、新しい「価値の想像」の思想
まず1.から。
神は死んだ。
ニーチェのよく知られている言葉の一つにこれがある。
彼はキリスト教を徹底的に批判する。
(P91)
"キリスト教はヨーロッパにおける「人間の理想像」についての最大の思想だった。(中略)それは、自然な肉体とエロス、現世の欲望、快楽、陶酔、愉悦、といった人間の本性を徹底的に否認し、それとまったく究極の反対物として、「神」と打ち立てた。"
"人間の肉体の自然性を「悪魔」の属性と敵視し、その上で、前世における生の欲望を一切否定すること。"
"人間のこの世における生は、かりそめのもの、誤ったもの、つまり「仮象」にすぎず、ほんとうの生は最後の審判の後においてのみ存在する。"
ここから導きだされる、"生を絶対的に否定しようとする意思"というニヒリズム。
そして禁欲主義的僧侶が、苦痛を愛することを教えるにいたった。
このルサンチマンの方向転換。
強者に対する弱者のルサンチマンをコントロールし、ルサンチマン思想がヨーロッパで完全に勝利した。
よって、キリスト教が大布教されることになったのだと。
ここで、ルサンチマンの概念は重要で、イソップ童話の「撮れないブドウをすっぱいと言ったキツネ」が例として分かり易い。
つまり、そのキツネは本当はブドウが欲しくてたまらなく、実際に食べられるのであれば間違いなく食べた。
しかし、ブドウは食べられない高さのところにあったため、キツネは自分の都合でブドウの価値をおとしめる。
「あのブドウはすっぱいに違いない。ああ、食べなくて良かった。」
これにより、キツネの道徳心が歪んでしまうことが分かる。これが弱者のルサンチマンの例えになる。
ここに同じようなキツネが多く集まり、「ブドウを欲しがらないことは良い事だ!」という道徳や教義をはじめる。
端的にいえば上の例えになり、これが「価値の顛倒」に繋がる。
話を元に戻すと、このような弱者のルサンチマンが、キリスト教に隠れているのだと、ニーチェは言う。
そして、ヨーロッパ近代哲学の「道徳」概念が、このようなキリスト教の「道徳」の本質をそのまま受け継いでいると彼は説く。
(P117)
では、「真理」とは何か。
事実なるものはない、ただ解釈だけがある。
これもニーチェのよく知られている言葉だが、これに照らし合わせて、"伝統的に「真理」と呼ばれていたものは、じつは最も強力な「解釈」だったことにすぎない"、とされる。
そしてこの解釈は、「力=生あるものの、保存・生長」による価値評価であり、何が有用で不可欠で利益であるかを決めているのだから、さまざまな真理が存在する事になるのである、と。
ここまでが1.の雑なまとめ。
では2.はどうか。
(P124)
ロマン主義、感傷主義、相対主義、懐疑論、機械論、無神論、ペシミズム、デカダンといた諸形式をとって現れる「徹底的なニヒリズム」
これらは人々の飽くなき「真理への意思」の帰結であるとニーチェは言う。
ここは、彼の以下の言葉がそのまま分かり易いと思う。
"つまり何が起こったか?「目的」という概念をもってしても、「統一」という概念をもってしても、「真理」という概念をもってしても、生存の総体的性格は解釈されないとわかったとき、無価値性の感情がえられたのである。"
そして本書では "「いっさいは何の意味もない」「すべては許されている」
これが、19世紀において現れたヨーロッパのニヒリズムの完成形態である。"と語られる。
そして、20世紀において、ファシズムとスターリズムという事態が生まれる。
ファナティスムの可能性はいまだ潜在的に存在するとあるし、もう一方で、我々消費社会における潜在的なニヒリズムの進行があると、本書は語る。
しかし、ニーチェが説く活路は、ニヒリズムを徹底する先にあるのだ、という。
最後に3.がある。
昔のヨーロッパに蔓延していた価値の顛倒は、先にあったルサンチンマンやニヒリズムがそれにあたる。
そしてこのニヒリズムを否定せずに受け入れて、その先にある「超人思想」と「永遠回帰」をニーチェは説く。
超人思想、(P136) "人間により深いルサンチマンやニヒリズムではなく、より大きな「エロス」と「力」を生み出せるような「道徳」と「理想」を創出すること。そのために、さらに「高い」人間モデルを生み出すことを(中略)おのれの「目標」として生きること。"
永遠回帰、(P170) "「君の行為が、いつも無限の繰り返しとそう欲されるべきものとなるように行為せよ」"
資本主義の問題を述べ、社会主義を是としたマルクス主義への批判として、ポスト・モダニズム思想が流行したんだって。
そこでニーチェはポスト・マルクス主義の源泉として、スポットライトを浴びることになった模様。
「知」と「権力」が独自の仕方で結びつくことへの反省。
つまり、社会主義の歴史が証明したように、(P17) "知と認識が何らかの仕方で絶対化されると、それは権力を支える協力などうぐになりうる。" からだ。
そのために、権力一般を解体する思想を見出すこと。
ヨーロッパで打ち立てられてきた価値観の一切を徹底的に否定してきたニーチェだからこそ、その思想がこうして甦ることになったようだ。(しかしニーチェの思想は深いところまで汲み取られていないと、本書はいっているけれど。)
厳密な定義は知らないけど、僕ら、いや俺は無神論者だ。神社へいって祈願したりお守りを買ったり云々はする。
(日本人は無神論者じゃない、日本教だという議論もあったけど。)
なにかの宗派に属し、信仰を持つということはしていない。
だからだろうか、ヨーロッパの人々が、キリスト教の訴求力が失速していき、変わりに19世紀のヨーロッパに広がったニヒリズムによるインパクトが想像できないのは。
先祖代々信仰を重ね、習慣となり常識と化し人生の一部となる。
それがある日突然、「神は死んだ。」と宣言される。
当然初めは「何言ってるの?」という感じなのだろうが、徐々にそれは伝染していき、ニヒリズムが台頭していく。
その虚無感はどんなものなんだろう。
ニヒリズムが広がった背景には、そういったヨーロッパの人々において、キリスト教が与えていた「道徳」がいかに信じられ、浸透していたか、ということがあるんだろうな。
なので、僕らに「神は死んだ」といっても、きっと多くの人はピンとこないんじゃないだろうか。
ではなんで、日本でニーチェが人気を博したんだろう。
日本人が持っている美徳や謙虚さっていうのは、ルサンチマンに通ずる部分が少なからずあり、それを壊す考えに刺激を得たから?
「どうぞどうぞ」と相手へ先を譲る光景や、「つまらないものですが」と贈り物を渡す光景。(思いつくのが浅はか、、)
相手への気配りやおもてなしの心、和の精神。これには熟考が必要だけど、少なくともこれが直接ルサンチマンに変わるとは思わない。
ただ、グローバリゼーションが進む世の中において、価値観が変化する時代。
いままでそこにあった道徳心が変わりはじめ、我先にといったような自分本位化が昔に比べて強力になったことで、今まで無かったところに、ルサンチマンが生まれてきたのかもしれない。
そう考えると、少しは納得する。
俺がなんでこの本を読もうとしたのか。
このルサンチマンの考えが面白かったし、超人思想というのも面白かったから。
力への意思。それはやっぱり、少なからず俺の中の「価値の顛倒」があったから。
もう一つ。
海外へ行ったとき、たびたび自分の不勉強を自覚することがある。
その一つにあるのは「自分の国の歴史」についてだ。海外の人は、自国の歴史をよく知っているし、よく認識している。
直接困った事はないけれど、歴史についてもっと知っておくべきだという念が残る。
(そして歴史の本を買っては、途中で止まってしまっているのはここだけの内緒。)
加えて、彼らには「宗教」がある。何を信じて生きているか。彼らはそれを生活の一部としているのだ。
そして、これら「歴史」「宗教」(もちろん、その他経験など) から生まれる「思想」がある。
それはその人の「アイデンティティ」だ。
このアイデンティティを築き上げて行くには、先に言った歴史や経験はもちろん、宗教に変わる何かが必要だ。
それを探すのに、「哲学」が助けになるかもしれない、そう考えた。
なぜなら、彼らは自分の目指すもの(真理であったり、主義であったり) を導きだそうと、色んなアプローチをした人達だからだ。
様々なタイプがいるけど、どれかがヒントになるかもしれないし、ならないかもしれない。
その中で、ニーチェの考えが面白かったから、読んで見たんだ。
(その結果、難しくて一部しか分からなかったけどな!)
ということで、ニーチェに興味がある人、哲学なんて自己満足の極致だろ!理屈の世界はNo thank youなんだけど時間を持て余している人、私の持つ真理の前には敵などいませんつまり無敵、な人などなど。
著者である竹田さんの説明は整理されていてとても読み易かった。
しかし、読み易い事と理解できるということとは、別問題だということを知りました。
おすすめ度:75点
今回、初めて竹田さんという人を知った。他の本も読んでみよ。
最後に、本書の中から好きな一節を一つ。
(P184)
"「なんのために私たちが生きているのか」(中略) その問いに応える者はもはや誰もいない、この問いの答えは存在しない。
世界と歴史の時間にはどんな「意味」も存在しないと。そして、それにもかかわらず君は生きねばならず、したがって「なんのために」ではなく「いかに」生きるかを自分自身で選ばなくてはいけない。"
長文お疲れさまでした。
ニーチェ入門 (ちくま新書)
著・竹田 青嗣
難しい。。
ぐだぐだ書いてたら長文になった。恐らく、過去最長なのでは!
ということで、興味のある人もしくはマーヒーな人だけ以下をどうぞ。
(メモの要素が強いため、乱雑なまとめはご愛嬌ということで、、)
著者もまとめているポイントを引用すると、以下3点。
1.キリスト教および近代哲学の「真理」と「道徳」概念の批判
2.「ヨーロッパのニヒリズム」についての根本考察
3.これまでのすべての「価値の顛倒」と、新しい「価値の想像」の思想
まず1.から。
神は死んだ。
ニーチェのよく知られている言葉の一つにこれがある。
彼はキリスト教を徹底的に批判する。
(P91)
"キリスト教はヨーロッパにおける「人間の理想像」についての最大の思想だった。(中略)それは、自然な肉体とエロス、現世の欲望、快楽、陶酔、愉悦、といった人間の本性を徹底的に否認し、それとまったく究極の反対物として、「神」と打ち立てた。"
"人間の肉体の自然性を「悪魔」の属性と敵視し、その上で、前世における生の欲望を一切否定すること。"
"人間のこの世における生は、かりそめのもの、誤ったもの、つまり「仮象」にすぎず、ほんとうの生は最後の審判の後においてのみ存在する。"
ここから導きだされる、"生を絶対的に否定しようとする意思"というニヒリズム。
そして禁欲主義的僧侶が、苦痛を愛することを教えるにいたった。
このルサンチマンの方向転換。
強者に対する弱者のルサンチマンをコントロールし、ルサンチマン思想がヨーロッパで完全に勝利した。
よって、キリスト教が大布教されることになったのだと。
ここで、ルサンチマンの概念は重要で、イソップ童話の「撮れないブドウをすっぱいと言ったキツネ」が例として分かり易い。
つまり、そのキツネは本当はブドウが欲しくてたまらなく、実際に食べられるのであれば間違いなく食べた。
しかし、ブドウは食べられない高さのところにあったため、キツネは自分の都合でブドウの価値をおとしめる。
「あのブドウはすっぱいに違いない。ああ、食べなくて良かった。」
これにより、キツネの道徳心が歪んでしまうことが分かる。これが弱者のルサンチマンの例えになる。
ここに同じようなキツネが多く集まり、「ブドウを欲しがらないことは良い事だ!」という道徳や教義をはじめる。
端的にいえば上の例えになり、これが「価値の顛倒」に繋がる。
話を元に戻すと、このような弱者のルサンチマンが、キリスト教に隠れているのだと、ニーチェは言う。
そして、ヨーロッパ近代哲学の「道徳」概念が、このようなキリスト教の「道徳」の本質をそのまま受け継いでいると彼は説く。
(P117)
では、「真理」とは何か。
事実なるものはない、ただ解釈だけがある。
これもニーチェのよく知られている言葉だが、これに照らし合わせて、"伝統的に「真理」と呼ばれていたものは、じつは最も強力な「解釈」だったことにすぎない"、とされる。
そしてこの解釈は、「力=生あるものの、保存・生長」による価値評価であり、何が有用で不可欠で利益であるかを決めているのだから、さまざまな真理が存在する事になるのである、と。
ここまでが1.の雑なまとめ。
では2.はどうか。
(P124)
ロマン主義、感傷主義、相対主義、懐疑論、機械論、無神論、ペシミズム、デカダンといた諸形式をとって現れる「徹底的なニヒリズム」
これらは人々の飽くなき「真理への意思」の帰結であるとニーチェは言う。
ここは、彼の以下の言葉がそのまま分かり易いと思う。
"つまり何が起こったか?「目的」という概念をもってしても、「統一」という概念をもってしても、「真理」という概念をもってしても、生存の総体的性格は解釈されないとわかったとき、無価値性の感情がえられたのである。"
そして本書では "「いっさいは何の意味もない」「すべては許されている」
これが、19世紀において現れたヨーロッパのニヒリズムの完成形態である。"と語られる。
そして、20世紀において、ファシズムとスターリズムという事態が生まれる。
ファナティスムの可能性はいまだ潜在的に存在するとあるし、もう一方で、我々消費社会における潜在的なニヒリズムの進行があると、本書は語る。
しかし、ニーチェが説く活路は、ニヒリズムを徹底する先にあるのだ、という。
最後に3.がある。
昔のヨーロッパに蔓延していた価値の顛倒は、先にあったルサンチンマンやニヒリズムがそれにあたる。
そしてこのニヒリズムを否定せずに受け入れて、その先にある「超人思想」と「永遠回帰」をニーチェは説く。
超人思想、(P136) "人間により深いルサンチマンやニヒリズムではなく、より大きな「エロス」と「力」を生み出せるような「道徳」と「理想」を創出すること。そのために、さらに「高い」人間モデルを生み出すことを(中略)おのれの「目標」として生きること。"
永遠回帰、(P170) "「君の行為が、いつも無限の繰り返しとそう欲されるべきものとなるように行為せよ」"
資本主義の問題を述べ、社会主義を是としたマルクス主義への批判として、ポスト・モダニズム思想が流行したんだって。
そこでニーチェはポスト・マルクス主義の源泉として、スポットライトを浴びることになった模様。
「知」と「権力」が独自の仕方で結びつくことへの反省。
つまり、社会主義の歴史が証明したように、(P17) "知と認識が何らかの仕方で絶対化されると、それは権力を支える協力などうぐになりうる。" からだ。
そのために、権力一般を解体する思想を見出すこと。
ヨーロッパで打ち立てられてきた価値観の一切を徹底的に否定してきたニーチェだからこそ、その思想がこうして甦ることになったようだ。(しかしニーチェの思想は深いところまで汲み取られていないと、本書はいっているけれど。)
厳密な定義は知らないけど、僕ら、いや俺は無神論者だ。神社へいって祈願したりお守りを買ったり云々はする。
(日本人は無神論者じゃない、日本教だという議論もあったけど。)
なにかの宗派に属し、信仰を持つということはしていない。
だからだろうか、ヨーロッパの人々が、キリスト教の訴求力が失速していき、変わりに19世紀のヨーロッパに広がったニヒリズムによるインパクトが想像できないのは。
先祖代々信仰を重ね、習慣となり常識と化し人生の一部となる。
それがある日突然、「神は死んだ。」と宣言される。
当然初めは「何言ってるの?」という感じなのだろうが、徐々にそれは伝染していき、ニヒリズムが台頭していく。
その虚無感はどんなものなんだろう。
ニヒリズムが広がった背景には、そういったヨーロッパの人々において、キリスト教が与えていた「道徳」がいかに信じられ、浸透していたか、ということがあるんだろうな。
なので、僕らに「神は死んだ」といっても、きっと多くの人はピンとこないんじゃないだろうか。
ではなんで、日本でニーチェが人気を博したんだろう。
日本人が持っている美徳や謙虚さっていうのは、ルサンチマンに通ずる部分が少なからずあり、それを壊す考えに刺激を得たから?
「どうぞどうぞ」と相手へ先を譲る光景や、「つまらないものですが」と贈り物を渡す光景。(思いつくのが浅はか、、)
相手への気配りやおもてなしの心、和の精神。これには熟考が必要だけど、少なくともこれが直接ルサンチマンに変わるとは思わない。
ただ、グローバリゼーションが進む世の中において、価値観が変化する時代。
いままでそこにあった道徳心が変わりはじめ、我先にといったような自分本位化が昔に比べて強力になったことで、今まで無かったところに、ルサンチマンが生まれてきたのかもしれない。
そう考えると、少しは納得する。
俺がなんでこの本を読もうとしたのか。
このルサンチマンの考えが面白かったし、超人思想というのも面白かったから。
力への意思。それはやっぱり、少なからず俺の中の「価値の顛倒」があったから。
もう一つ。
海外へ行ったとき、たびたび自分の不勉強を自覚することがある。
その一つにあるのは「自分の国の歴史」についてだ。海外の人は、自国の歴史をよく知っているし、よく認識している。
直接困った事はないけれど、歴史についてもっと知っておくべきだという念が残る。
(そして歴史の本を買っては、途中で止まってしまっているのはここだけの内緒。)
加えて、彼らには「宗教」がある。何を信じて生きているか。彼らはそれを生活の一部としているのだ。
そして、これら「歴史」「宗教」(もちろん、その他経験など) から生まれる「思想」がある。
それはその人の「アイデンティティ」だ。
このアイデンティティを築き上げて行くには、先に言った歴史や経験はもちろん、宗教に変わる何かが必要だ。
それを探すのに、「哲学」が助けになるかもしれない、そう考えた。
なぜなら、彼らは自分の目指すもの(真理であったり、主義であったり) を導きだそうと、色んなアプローチをした人達だからだ。
様々なタイプがいるけど、どれかがヒントになるかもしれないし、ならないかもしれない。
その中で、ニーチェの考えが面白かったから、読んで見たんだ。
(その結果、難しくて一部しか分からなかったけどな!)
ということで、ニーチェに興味がある人、哲学なんて自己満足の極致だろ!理屈の世界はNo thank youなんだけど時間を持て余している人、私の持つ真理の前には敵などいませんつまり無敵、な人などなど。
著者である竹田さんの説明は整理されていてとても読み易かった。
しかし、読み易い事と理解できるということとは、別問題だということを知りました。
おすすめ度:75点
今回、初めて竹田さんという人を知った。他の本も読んでみよ。
最後に、本書の中から好きな一節を一つ。
(P184)
"「なんのために私たちが生きているのか」(中略) その問いに応える者はもはや誰もいない、この問いの答えは存在しない。
世界と歴史の時間にはどんな「意味」も存在しないと。そして、それにもかかわらず君は生きねばならず、したがって「なんのために」ではなく「いかに」生きるかを自分自身で選ばなくてはいけない。"
長文お疲れさまでした。
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