母性のディストピア

前回に続き、サブカルチャー本の紹介。
こちらが手にとった2冊目の本で、同じく宇野さん。
1冊目よりも昔に書かれているもので、前回のが大学講義の一部をまとめたものであったので平易な語り口だったのに対して、こちらは集英社WEB文芸 RENZABURO で9年間不定期連載を行っていたもののようで、思想色がより強く難解度もぐっとあがる。元が不定期連載という形態であったこともあり、文章が冗長的で読みづらく、かつ悦に入っている感もあるのだけど、だからこそオタク度という点に関しては、こちらのほうがぐっと深度が深くなっている。
というのも、本書で主に取り扱うのは、アニメーション界における巨星である、宮崎駿、富野由悠季、押井守の御三方であるからだ。 



著・宇野常寛

まず著者は、いまのこの国に本当の意味で語るに値する現実は一つも存在しない、と断言する。
少子高齢化が進み新たなダイナミズムが生まれないまま社会システムが老朽化していくこの日本において、想像力がいる仕事は一つもない、当たり前に必要なことを当たり前にやる。それはマイナスをゼロにするためだけの、バケツの穴に水を塞ぐような仕事(政治)であるし、真夏の季節に水分補強をしましょうというような、グローバル/情報化の波に流されること無く器用にバランスをとること(文学)、だと言い放つ。
では本書で語りたいものはなにか。
それは想像力の必要な仕事だ。生産的なことだ。
安倍晋三とかSEALDsとかいった諸々の茶番を語ることではなく、ナウシカについて、シャアについて語ることだ。
そう著者は言う。なぜそうなるのか。著者の言葉を引用する。

“圧倒的な彼我の距離を言葉を用いて破壊し、ゼロにすること。遠く離れ、本来はつながらないはずのものを、つなげること。それが批判の役割だ。”

何をどうやって批判したいのか。先に2つの著者の見方を挙げておこう。

1つ目。戦後日本に輸入され大衆化したメジャーなものに、「車」と「映像」がある。いずれもアメリカから輸入され日本で改善改良され、今では日本が誇るコンテンツにもなった。
映像とは立体的な情報を2次元に整理し直して視聴者を繋げる、大衆で共有するものだ。そして、作り手が意図しないものは存在しない空間であり、「全ての映画はアニメーションになる」という押井守の言葉を借りて、アニメーションが究極の映像であることを控えめに述べる。

2つ目。一方で、マッカーサーが日本を当時「12歳の少年」と揶揄したように、これから成熟を迎えるという希望が当時あった。しかし実際は、強い男性像を求めたときに旧日本軍という歴史的悪が立ちふさがり、そのアイロニーを抱えながら経済大国第二位まで上り詰め、経済面だけが肥大化し、ついにはその座を明け渡すことになるのだが、それまでの時間で新しい社会像も提出できないまま、つまり喩えるなら「永遠の12歳」のまま、ネオテニーな日本の姿が今も続いている。

この2つを結ぶと、つまり、こうした社会の成り立ちを、究極の映像であるアニメーションを用いて、作り手たちはどう批判してきたのか、ということが言える。本来つながらないはずのものを、どうつなげ、キャラクター達に語らせてきたのか。更には、巨匠たちがどう歩んできたのかを、作品への洞察を通して、著者は本書で語っているのだ。

ここで、本書内で出てくる大きなテーマを紹介しておく。戦後日本が持つアイロニー、つまりこじれっぷりを、アニメとう表現手法を用いて脈々と作り手たちはしてきたのだが、それを大きくわけて、虚構の中での実現を語る=「アトムの命題」と、虚構を通して現実を描く=「ゴジラの命題」と呼んでいる。

“「アトム」と「ゴジラ」の一対性とは戦後日本的アイロニーに対する2つの態度の一対性の表現のことに他ならない。「アトムの命題」が(近代的)成熟という現実の戦後日本には存在し得ないものを虚構の中で実現するものとしての機能を戦後サブカルチャー、とくにアニメーションに与えたとするのなら、「ゴジラの命題」は逆説的に虚構にしか描くことのできない現実を捉える機能を与えたのだ。「虚構(ファンタジー)を通してしか捉えられない現実を描くこと」、それが今日に至るまで戦後サブカルチャーを呪縛し続ける「ゴジラの命題」だ。"

こうした視点を踏まえながら、著者の語りは加速していく。
曰く、宮崎駿は「飛ぶ」ことで、個人と世界を繋げてきたと。
"宮崎駿は飛べない豚たちの物語(ルパン三世カリオストロの城、天空の城ラピュタ、紅の豚など)と、彼らの代わりに飛び続ける少女たち(風の谷のナウシカ、魔女の宅急便など)を反復して描いた。「母」の胎内でだけ飛ぶことが、「父」になることができる。いや、その夢を見ることのできる少年たちがいる。それは戦後日本の根底に存在するニヒリズムと、そこから出発したアイロニカルな成熟のかたちそのものであり、宮崎自身の苛立ちとは、裏腹に高度成長から商品社会へグロテスクに肥大した戦後日本の姿そのものだったと言えるだろう。"

曰く、富野由悠季は徹底的に現実と向き合った作家であると。
"富野はこの戦後という「母性のディストピア」を、偽りの身体と偽史によって表現した。モビルスーツという仮初の身体と、宇宙世紀という架空年代記を用いた成熟の仮構装置は富野がその時代認識の
表現として構築した巨大なシステムだった。そして、「ニュータイプ」とはそのシステムを内破するものとしてーー自己破壊的な超克としてーー自ら見出したものだった。"

曰く、押井守は批判の構造にもっとも意識的だったと。
"戦後アニメーションの想像力が陥った袋小路にもっとも意識的な作家が押井守だった。押井は端的に述べれば、先行する作家たちの囚われていた戦後的男性性とその成熟の問題(「母性のディストピア」)を、そして「政治と文学」と呼ばれた問題を情報論に変換して展開することで突破しようとした。具体的にそれは、超越的な外部を想定することのできない新しい世界におけるモラルのあり方の探求として行われた(その最大の成果がパトレイバー2だった)"

一点補足しておく言葉がある。本書のタイトルにもなっている、母性のディストピアとは何か。
本書を読んでいると、押井守が監督した「うる星やつらビューティフル・ドリーマー」に対する解説が、端的にそれを表しているようにも思えるが、著者の言葉を引用しておくと以下になる。

"「アメリカの影」の下、戦後日本では世界と個人、公と私、政治と文学の関係が前者が消去されていることで実質的に成立していない。しかし、いやだからこそ表面的にはそれらが存在し接続されていることで実質的に成立していない。しかし、いやだからこそ表面的にはそれらが存在し接続されているかのように演じることが要求される。その結果として後者(個人、私、文学)がその内部で自己完結することで、前者(世界、公、政治)と疑似的に接続されている状態をつくりあげる。この回路は政治的なものの語り得ない、武器を持てない/持たない戦後日本の男性的な自意識の救済に他ならない。その結果、こうして矮小な父性を救済すべく肥大した母性が導入され、無条件の承認を与えることで自己完結が達成される。
江藤淳から村上春樹まで、この国の戦後を生きた男たちは「母」の胎内に閉じこもったまま、「父」になる夢を見続けることになる。そして、何もなし得ないまま、死んでいく。この肥大した母性と矮小な父性の結託こそが戦後日本を呪縛した「母性のディストピア」だ。"

こうして、「映像の世紀」と共に生きた作り手たちが、アニメという批判力をフルに活用し、そして新たな像の提出に苦戦し、映像の世紀が終わりを迎えた。
そして新たな世紀である「ネットワークの世紀」が既に始まっており、その中で今後どうあっていくか。
「…でない」から「…である」への転換。情報技術を通じて、どう「中間のもの」を社会に埋め込んでいくのか。言い換えれば、この国の機能不全を引き起こした民主主義についての対応策として、デモと選挙の中間に第三の回路を整備すること。
著者はこの課題をこう話す。
"戦後政治に置いてもっとも実行力があったのはある種の談合主義に基づいた社会的ロビイングであることは明白であるだろう。例えば戦後社会においては閉鎖的なコミュニティの中に閉ざされ、談合主義の温床となっていたこの回路を、いかに情報技術を利用してオープンかつフェアなゲームとして民主化するのか、という課題が浮上するはずだ。そのためにまず個人と国家の中間に、家族でも地域社会でもない、ましてや戦後的企業のムラ社会でもない、現代的な連帯のモデルを実現することが必要になる"

そうして、著者が最も期待していることの一つに、富野由悠季が再び登場する。
あたなにはまだやるべきことがある、と。

以上が、本書の大雑把な流れ。

虚構を通して現実を考える、という想像力の話は、最初は「?」であった。なぜなら虚構は虚構だし、現実は現実だと、分けて考えていたからだ。
しかし実は、そこには批判が潜んでいて、現実の問題と接続していること。その想像力を活かしていくこと、という筆者の語りは、最後の方でようやく自分の中で繋がってくる。
そこで、僕はこう考えたい。モノを作るということには2つの考える力がある。想像力と妄想力だ。想像力というのは、現実の力学の中でのイマジネーションであるのに対して、妄想というのは現実から開放されたイマジネーションだ。
妄想が妄想のまま留まるのなら、それはただの空想や理想論であり虚しい左翼論になる。そうではなく、妄想を現実に接続する想像力が常に必要だと、こう考えることができそうだ。
妄想を現実に、なんていうのは手垢のついたセリフだけど、かつて妄想だった虚構が、いまでは現実になっているということは多いはず。
それは新しい技術がこれまで出来なかった、あるいは考えもしなかったことを現実化してくれていて、今まさにそうした時代を生きている。
ならば、とある妄想はどこかで現実と繋がっている。
妄想それ自体が、ネットワークですぐ他人とシェアして語れるし、クラフドファンティングでお金にすらなる時代。
そういう意味では、妄想あるいは虚構それ自体に価値がある時代なのだ。意味のあるものもあるだろうし、無意味なものもあるだろう。宇野さんは、そのあたりに自覚的なのだと思う。
宇野さんの論を読んでいると、どっかのニーチェが、解釈だけが存在する、ということを言っていたことを思い出す。展開される議論は、その積み木は、宇野さんの解釈であり、積み上がった城は一つの虚構だ。そのユニークな虚構は、どこまで本当の批判力を持っているのだろうか。
日本がネオテニーを脱皮できていないとするならば、「中間のもの」が過去の反復にもイデオロギーの温床にもならず、脱皮のための新たなシステムになることを、どこまで信じているのだろう。


そんなことを思いながら、とりあえずはサブカルチャー関連本の読書はここまでとした。 

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