前回のエントリーでイスラエルのこと書こうとか言ってたけど、書き時を逃して色んなものが心のドラフトになってそのまま消え去っていく、というのが何個かあるので、文脈無視して最近読み終わった2冊の本を紹介しておこうかなと思います。
著:宇野常寛
1977年から半年間放送された作品のようで、アニメの、映像のもつ批判力、というのをかなり初期の頃から富野監督はやっていたんだなぁ、というか、昔の漫画とかアニメっていうのは、社会批判の側面が強いものが今よりも多かった、という勝手なイメージ。
そうしたものが、「世界は変えられない」という挫折から、描かれるものが徐々に変わってきたということなんだろう。
蛇足になってきたのでここまで。もう一冊はまた今度。
著:宇野常寛
この本を手に取るきっかけになったのは少し前に見た映画「レディ・プレイヤー1」。
妻にそそのかされて「GODZILLA 決戦機動増殖都市」を観に行ったらメカゴジラ欲が満たされず消化不良になっていたのだけど、偶然その欲を埋めてくれたのはレディ・プレイヤー1という、サブカルチャー色たっぷりの映画だった。
国の存在が希薄な、近未来のディストピアにおいて映し出されるVR世界にはオタク文化が溢れていて、色んな遊び心が詰まっている。
その遊び心っていうのが、懐古主義的でもある一方、すでに僕らが生きて久しい、地理的時間的なものをゼロ距離にする、(これから紹介する本書の著者宇野さんの言葉を借りれば)「ネットワーク時代」の一つの形(それもありふれた)であったりする。
それを支えるコンテンツに、割と日本文化が入っていて、日本のサブカルチャーの影響っていうのは強いものがあるのだなぁ、というハリウッド映画で改めて知る、的な映画体験でもあった。
こうしてサブルカルチャー周辺の話にちょっと興味が湧いて、手にした2冊の本の内の一つが本書。
僕自身は残念ながら若者ではないのだけど、本書は京都精華大学で行われた講義の一部を本として編集したもので、だから生徒である若者に向けた講義ということで、若者のための、と題している。
いわゆるオタク文化に代表されるものの中から、漫画・アニメ・アイドル 3つのテーマから、社会の変化とともに、それらコンテンツがどう変化してきたか、どこから来てどこへ行ったか、あるいは行こうとしているのかを、作者独自のユニークな視点からその関係性に意味付けを行っているのが面白い。
作者自身も言っているが、「世界は変えられない」という挫折から「自意識を変える」という方向に向きサブカルチャーが興隆し、サブカルチャーと社会が連動していた一つの時代が終わりを告げ、ITで世界が変えられるじゃん、というカルフォルニアン・イデオロギーが世界の先端を行っている。
そうした時代の流れにおいて、サブカルチャーはどうあったのか。著者は現状をこう語る。
"残念ながらいまの時代は、新しいサブカルチャーはあまり求められなくなっているんです。サブカルチャーで青春時代を過ごした世代が高齢化して、その人達が社会の人口構成比の大部分を締めている。彼らが求めているのは新しいものではなく、自分の思い出を温め直すことなので、映像産業やエンタメ産業もその需要に応えざるをえないんですね。こういった事情からサブカルチャーの時代がおわろうとしている。サブカルチャーが持っていた新しいものを生み出す力が弱くなっているし、それと同時に、サブカルチャーについて語ることが社会を語ることと結びついていた時代の前提が、ゆるやかに崩壊しつつある、というのが現状の状況です。”
そして、本書で展開される講義の目的をこう設定する。
"自己正当化しか思いつかない文化左翼と、目に見えないものを考えることのできない「意識高い系」。僕は古い世界に留まって文化左翼と何かを語る気にもならないし、「意識高い系」のように目に見える世界だけでものを考えることもちょっとできそうにない。そこで、この新しい世界でも通用する古い世界の思想法ー虚構、あるいは目に見えないものの世界を一度経由することで得られる思考法ーを抽出することに興味がある、というわけです。
世界を革命で変えるのではなく、自意識を変えることによって世の中の見方を変えることを徹底的に考えていた時代には、いろいろな想像力や思考法が、サブカルチャーという形態をとって現れました。そのかなには、これからの新しい世界を考える上でも応用できる思考がたくさん眠っています。この時代に培われた想像力をいかにしていまの時代に持ち帰るか。これがこの授業のテーマです。”
こうして、漫画、アニメ、アイドルの3つについて、講義が始まる、という展開。
本書の、というか、著者の面白い点は、それぞれのコンテンツを独立して語るのではなく、大きな文脈、「オタクだからこそ見える現代日本社会」というある種の精神史に再編しているところ。
著者のユニークな解釈がその文脈に回収されていき、現代日本というものを大胆に語っている。
それはともすればイデオロギー的な内容である一方で、今まで知らなかった視点、言ってしまえばオタクから見た各作品の、そして世界の認識の仕方というものが面白い。
端的に言うと、戦後日本が抱えた問題と、今でも続いている長期に渡る停滞、新しい希望を見いだせずにただ老朽化していく社会という認識を、映像の世紀が担ってきた役割と意義という視点を交えて議論していく。その議論で登場するのは、少年ジャンプであったり、マガジンであったり、鉄人28号であったり、ガンダムであったり、おニャン子クラブであったり、AKB48であったり、様々。
へー、そういう読み方があるのかぁ、と関心しながら読んでいると、いつの間にか宇野ワールドに足を踏み入れている、というような本。
ちなみに、「無敵超人ザンボット3」の紹介内容が結構衝撃的で気になってしまった。。1977年から半年間放送された作品のようで、アニメの、映像のもつ批判力、というのをかなり初期の頃から富野監督はやっていたんだなぁ、というか、昔の漫画とかアニメっていうのは、社会批判の側面が強いものが今よりも多かった、という勝手なイメージ。
そうしたものが、「世界は変えられない」という挫折から、描かれるものが徐々に変わってきたということなんだろう。
蛇足になってきたのでここまで。もう一冊はまた今度。
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