異性




著・角田光代/穂村弘

角田光代さんと穂村弘さんがそれぞれの原稿を隔てて交互に話を繰り広げていく男女の考察。
自身の経験をもとに、2人の自然な掛け合いから恋愛の事柄を軸に男女の違いをあーだこーだと話が推移していく。
観察力あるいは内省力が高いお二人のやり取りのなかには、真実性のある言及がちらほら出てきては、あーそうかも、としみじみすることもしばしば。
時間感覚の違いであったり、所有に対する捉え方であったり、対人的スペースの話であったり。

本文中からの引用を3つほど挙げてみよう。


断言してもいいと思う。
じつに多くの女性が、二十年なら二十年、五十年なら五十年、もしくは十年だっていい、生きてきたそれぞれの時間のなかで、真剣にそれを願ったことがあるはずだ。
私の真価に、だれか、早く気づいて、と。
(中略)
告白すれば、私はずーっとそれを願っていた。だから、その気持の表も裏も、じつによくわかる。
「今の私はまるでもてないが、でもきっと恋人はいつかできるはず」。みえみえのもてる努力はしたくないが、でももてたい、好かれたい。それがつまりは裏、というか、本音。そしてそう思う女子は、たいてい自分の容姿に自信がない。私は美人ではない、スタイルだってよくない、でも、こんな私だってかわいいと思ってくれる人が世界のどこかにはきっといる。少なくとも私はそう信じていた。真価、というのは、ありのままの容姿にたいする第三者からの肯定である場合が多い。あとは心根のよさ。


こう角田さんが語るとき、僕は女性特有ではなく男性もそうしたことがあるんじゃないかと思ったりする。
何を隠そう、モテナイマンである僕が共感する部分があるからだ。
ほぼ男子校のような学生時代を送った僕は社会人になり陸の孤島に送り込まれ、異性交流を謳歌することからは遠い生活であった。
「モテるために」という行動原理は僕の中にはなかった。無論、彼女は欲しい。しかし、モテるためにイメチェンをするなり積極的に遊びに誘ったり、という情熱は持ち合わせていなかった。
それは小さな自意識が明後日の方向に反発し、モテる努力すること自体を良しとしなかったり、あるいは失うものなんてないはずなのに、傷つくことを極端に恐れて行動に出ないことを隠すためのニヒリズム的な作用によって、僕はひたすらそのままであることを選択していたのかもしれない。
あるいは、「彼女が欲しい」という願望の熱量が、行動を変える閾値まで達するほど高くはなかったのかもしれない。
いずれにせよ、そうしたベクトルの行動は置いておいて、当時僕は自分の気に入るような自由を楽しんでいたように思う。
その自由の中で、でも彼女は欲しいなぁ、と思うとき、角田さんが語るものに似たものが僕の中に存在していたことを、ふと思い出すのだ。
まーこれが俗にいう草食系男子、とも言えるのかもしれない。


恋愛中のズレに関して云うと、その吸収率には男女間でちがいがあるのかもしれない。その原因は、「好きなうちは許せる度」の男女差によると思う。女性はこの能力が高い。彼女たちの世界像はロジックよりもシンパシーの要素で成り立つところが大きいように思われる。つまり「好き」という根本的なフラグが立っている限り、かなりのことも受容してくれる。これが一種のメタ的な特性として機能して、男女間の関係性の維持に貢献するんじゃないか。
一方、男性にはそこまでの度量というかバイアスがない。恋人の振る舞いに対しても、スイート脳に徹しきれないというか、どこかで一般社会的な尺度を手放しきれないところがある。無条件に恋人の味方になるべきタイミングで、つい客観的なアドバイスをしてしまったりする。


穂村さんの感想。すげー分かる。そして、その度に怒られるのだ。
いつだって答えは簡単なはずで、女性に寄り添うのがベストアンサーであるはずだ。
にも関わらず、事の正否を、中立的に、客観的な視点から話してしまう。
あっ、となる。そう気づいてからは、もう遅い。
あれは何なんでしょうね。男性は女性よりも理性的な傾向が平均してあって、女性は男性よりも感情的になる傾向が平行してある、から?
こう言うとすぐ反発が生まれそうだ。理性的なはずの男性が、なぜ浮気をするのか、とか。


恋愛に対する感情移入において、女性にとってひとつの恋が一遍の長編映画だとしたら、男性にとってのそれは四コマ漫画の集まりみたいなものではないか。
もちろん、四コマ漫画だから価値がない、ということにはならない。費やすエネルギーは変わらない、と思う。ただ、作中の世界像が全く違っている。
自分が四コマ漫画的に捉えていた恋愛の場面やエピソードのひとつひとつが、突然、長編劇画の因果関係の中に位置づけられ、大きな流れの中で語られるとき、男性はその異質な熱量に圧倒されてしまうんじゃないか。何だ。何が始まったんだ、と。


こちらも穂村さんのもので、よく分かる。
特に、本人すら忘れてしまっているような過去の出来事を持ち出しては目の前の出来事と結びつける作業は、女性特有の伝統芸能にすら思える。
その背景にあるのは、長編劇画の監督たる彼女らの観察と脳内記録が脈々と続いているからに違いない。


角田さんの武器を持たずに素手で接近戦をしてきたスタイルと、穂村さんのちょっと大人なヒットアンドアウェイなスタイルという両者の違いが面白く、ちょっとした合間に読むには良い一冊。

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