Amazonプライムで羅生門を発見した。
羅生門といえば芥川龍之介の短編小説が名高い。羅生門の上で老婆が死人の髪を抜き集めているのを目撃した男が、老婆と問答をしている内に心の内ががらりと変わってしまうお話だったはず。これは中学生の国語の教科書で読んだだろうか。夜な夜な死人の中で蠢く老婆を想像するだけで恐ろしい気がしたことを覚えている。
それを黒澤明が1950年に映画化したもの。(実際には、同芥川の「藪の中」という短編小説も組み込まれているようだ。こちらは未読。)
いつもだったら見ないと思うのだけど、ちょっと前から新・平家物語を読み始めた関係で、洛内洛外の境界としてたまに出てくる羅生門の字を読んでいて、つい興味が湧いてしまい鑑賞することにした。
あらすじ的には、平安時代の羅生門を舞台に、人の愚かさや欺瞞など、人の暗黒面を、ある事件とその証言者達の話を通して浮き彫りにしていくというお話。
この事件に間接的に関わった2人の男、杣売りと旅法師が羅生門で雨宿りしつつ事件のことで放心しているところに、一人の男が雨宿りに加わり、聞き役になるところから物語は始まる。
その事件には3人の登場人物がおり、それぞれの口から検非違使の前で証言がされる。彼/彼女の視点から語られる証言は、それぞれの嘘が混じっている。
聞き役の男は得意気に、人の心を語り、世の中そういうもんだと飄々と言い放つ。そういうことをはさみつつ、物語が終盤を迎えるころ、隠された真実が露わになるのだ。
原作羅生門がそうであるように、人間のエゴイズムを映し出しているこの映画の内容は、現代社会においても通じるものだ。
それぞれがそれぞれの立場で主張をし行動に出るときに、何が守られるべきものなのか。人と人との営みに絶望ではなく喜びを感じさせるものであるためには、何が必要なのだろうか。
雨を使って重たい人の暗黒面が降り続く情景を用いた後で、最後に雨が上がるシーンで見せた黒澤の提示は何であったか。
それが罪悪感や良心の呵責からくる贖罪の感情であったとしても、その行動が尊いものには変わりないはずだ。
モノクロ映像の時代、画面の情報量がそれほど多くなく、だからこそなのか、演者の演技に魅せられる。
また、カメラワークでも羅生門は有名なようで、カメラを太陽に向けた、というのはこの映画が初めてなのだそう。フィルムを焼いてしまうという点で、当時、それは常識的に「あり得ない」ことだったそうだ。そうした「光」を用いた撮影の意味を知ることで、この映画を楽しむ視点が一つ増えそうだ。
ちなみにセリフが聞き取りづらいという欠点があるのだが、これは元のフィルムの保存状態に問題があり、過去にテレビやビデオで放映したものは、音質が落ちているらしい。字幕表示はできないかしら。
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