平和記念公園を訪れた後に向かったのは、世界遺産登録候補の旧グラバー邸を有するグラバー園。
(というか、ブログ更新が滞っている内に世界遺産に登録されましたね。色々と物議はありますが、おめでとうございます。)
復活したブラタモリ第一回目は長崎であり、タモリもグラバー園に足を運んでいる…わけではなく、その道中にあるグラバースカイロードを利用していた。
グラバースカイロードとは何か。
それは、長崎は坂道の町であり、坂道愛好家のタモリにとって興味の対象となった斜面エレベーターのことであり、住民の方々の日常の足である。
グラバー園は斜面にそって配置されており、第一ゲートをくぐり園内を上りながら観るルートになっている。
しかし第二ゲートは坂の上に位置する入り口で、ここから入れば順序こそ逆ではあるものの、坂を下りながら園内をまわることができる。
そっちの方が次への移動的にも都合が良いじゃん、ということで、第二ゲートを目指すのだけど、ここで先ほどのグラバースカイロードが登場する。
このグラバースカイロードに乗れば、難なく坂の上まで運んでくれて最寄りの第二ゲートから入場できるのでおすすめ。
長崎へ行く前にブラタモリを見ておいて良かった。
斜めに上がっていくエレベーターを降りたところにいたのは、神秘的な雰囲気を醸し出す白い二匹の猫。人懐っこい。
グラバー園内では、異国から日本にやってきた実業家たちの住宅が集っている。
当時の家屋や資料を目にする事ができ、彼らの数々の業績について知る事ができる。まぁ細かくは忘れたけど。
鎖国の時代から出島があったように、長崎は当時異国文化と繋がる町であった。
日本で様々な事業を手がけた海外からの実業家たちは、貿易業を通して茶の輸出の他、外国の資本や知識を日本へ輸入し近代化を助けていく。
日本の近代化に特別に貢献したと言われるのがトーマス・ブレーク・グラバーその人であり、詳しい説明はwikipediaに譲ることにする。
プッチーニのオペラ「蝶々夫人」はグラバー園が舞台だそうだ。観た事ないけど。
オランダと日本の血が流れるオペラ歌手喜波貞子は当時ヨーロッパでは大人気であったそうで、その彼女が日本を去るときに残したとされる和傘。
「私の残して行くものの中で一番大切なもの。私の魂。」と語られたこれは、門外漢から見ても深いストーリーが染み込んでいるような気持ちになる。
木製帆船模型というのだっけ、歴史上有名な帆船がいくつか飾られている。
当時世界最強とうたわれた大英帝国海軍の帆船が数多い。そういえば祖父も立派なものを作って玄関に飾っていたな。あの船はどこの国の船だったっけか。
旧グラバー邸はとりわけ花や植物に包まれている。
長崎の造船所が眼下に広がるこの土地と建物は、優雅な別荘そのものだ。
しかし造船所ってのはかっこいいもんだ。
あの巨大な船を、更に巨大な装置で造船するスケール。造船所ツアーとかないかしら。
旧グラバー邸自体には、個人的にはたいして魅力を感じることができなかったのだけど、祖国スコットランドを遠く離れ異国の地日本で近代化に力を貸したグラバー本人は、当時日本や日本人に対してどのような期待や未来を描いていたのだろうか、と思うと感慨深い場所だ。
ちなみに、後のキリンビールになる会社の経営難を助けた事もあり、それが転じて国産ビールの生みの親とも言われているそうだ。
グラバーさんがいなかったら、今のキリンビールは無く、もっと違うビールの歴史があったのかも?
長崎巡り日記はまだまだ、そしてだらだらと続くのである。
(というか、ブログ更新が滞っている内に世界遺産に登録されましたね。色々と物議はありますが、おめでとうございます。)
復活したブラタモリ第一回目は長崎であり、タモリもグラバー園に足を運んでいる…わけではなく、その道中にあるグラバースカイロードを利用していた。
グラバースカイロードとは何か。
それは、長崎は坂道の町であり、坂道愛好家のタモリにとって興味の対象となった斜面エレベーターのことであり、住民の方々の日常の足である。
グラバー園は斜面にそって配置されており、第一ゲートをくぐり園内を上りながら観るルートになっている。
しかし第二ゲートは坂の上に位置する入り口で、ここから入れば順序こそ逆ではあるものの、坂を下りながら園内をまわることができる。
そっちの方が次への移動的にも都合が良いじゃん、ということで、第二ゲートを目指すのだけど、ここで先ほどのグラバースカイロードが登場する。
このグラバースカイロードに乗れば、難なく坂の上まで運んでくれて最寄りの第二ゲートから入場できるのでおすすめ。
長崎へ行く前にブラタモリを見ておいて良かった。
斜めに上がっていくエレベーターを降りたところにいたのは、神秘的な雰囲気を醸し出す白い二匹の猫。人懐っこい。
グラバー園内では、異国から日本にやってきた実業家たちの住宅が集っている。
当時の家屋や資料を目にする事ができ、彼らの数々の業績について知る事ができる。まぁ細かくは忘れたけど。
鎖国の時代から出島があったように、長崎は当時異国文化と繋がる町であった。
日本で様々な事業を手がけた海外からの実業家たちは、貿易業を通して茶の輸出の他、外国の資本や知識を日本へ輸入し近代化を助けていく。
日本の近代化に特別に貢献したと言われるのがトーマス・ブレーク・グラバーその人であり、詳しい説明はwikipediaに譲ることにする。
プッチーニのオペラ「蝶々夫人」はグラバー園が舞台だそうだ。観た事ないけど。
オランダと日本の血が流れるオペラ歌手喜波貞子は当時ヨーロッパでは大人気であったそうで、その彼女が日本を去るときに残したとされる和傘。
「私の残して行くものの中で一番大切なもの。私の魂。」と語られたこれは、門外漢から見ても深いストーリーが染み込んでいるような気持ちになる。
木製帆船模型というのだっけ、歴史上有名な帆船がいくつか飾られている。
当時世界最強とうたわれた大英帝国海軍の帆船が数多い。そういえば祖父も立派なものを作って玄関に飾っていたな。あの船はどこの国の船だったっけか。
旧グラバー邸はとりわけ花や植物に包まれている。
長崎の造船所が眼下に広がるこの土地と建物は、優雅な別荘そのものだ。
しかし造船所ってのはかっこいいもんだ。
あの巨大な船を、更に巨大な装置で造船するスケール。造船所ツアーとかないかしら。
旧グラバー邸自体には、個人的にはたいして魅力を感じることができなかったのだけど、祖国スコットランドを遠く離れ異国の地日本で近代化に力を貸したグラバー本人は、当時日本や日本人に対してどのような期待や未来を描いていたのだろうか、と思うと感慨深い場所だ。
ちなみに、後のキリンビールになる会社の経営難を助けた事もあり、それが転じて国産ビールの生みの親とも言われているそうだ。
グラバーさんがいなかったら、今のキリンビールは無く、もっと違うビールの歴史があったのかも?
長崎巡り日記はまだまだ、そしてだらだらと続くのである。
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