コーヒーと映画

休日は一杯の珈琲からはじまる。
その一杯の味で、なんとなくその日の気分も左右されてしまう事もある。

こうした自己満の感覚は、ペーパードリップからネロドリップに変えてからますます加速していく。
ネロドリップに変えてから幾分か立つけど、相変わらず美味しい一杯を入れるのに苦労している。
むしろ、ペパーからネロに変えてから、淹れた珈琲の味がイマイチと感じることが多くなったり、その時々で大きくふらつくのは、皮肉でありネロドリップの奥深さを示しているんだろう。



そんな、自分の未熟さが香る珈琲を味わいながら、コーヒーがタイトルに付く映画を見た。
ちなみに最近見た映画がどれもイマイチで連敗中だ。
(映画の趣味が合わない妻と珍しく一緒に見た) 近未来のAIと傷ついた男との恋の形を描いた「her」が、妻の容赦無い批判にさらされボコボコな映画であったのと、だらだらと続くトランスフォーマー・ロストエイジには"まだ続ける気!?"と突っ込まずにいられない内容のものだった。

そんなイマイチの映画達とは一線を画すのが、今回観た「コーヒーをめぐる冒険」だった。

色彩豊かで斜め上へ飛んでしまっているherに比べれば一切がモノクロ世界であり地に足がついているし、(いろいろと)何でもありの世界観で何でもありの展開を起こしてはついでに眼球疲労も引き起こすトランスフォーマーに比べれば、部分部分に共感を覚える日常の世界観だし、目も疲れない。

本作は、青年のツイてない一日の話だ。
珈琲を飲もうとしては毎回何らかの理由で飲めない一日であり、珈琲が飲めないかわりに普段起きないトラブルが舞い込んでくる。

例えば、こんな事が起こる。
上目線で嫌味な面接官から免停を延長される。
ATMに入れたカードが出てこなくなる。
引越し先の住人からは奇妙で疑ってしまうほど変に親しげにしてくる。
仕送りを受けていた父親に、大学を中退したことが遂にバレる。
小学校時代にバカにした女性から歪んだ求愛を受ける。
しまいには独りになりたくなってバーに行ったら、酔っぱらいのオヤジが勝手に昔話を始めてくる。

この映画の中で、珈琲は日常の象徴だ。
一杯の珈琲を飲むことは日常の始まりであり、その珈琲が飲めないことはいつものリズムとは脱線することを示している。
主人公は、珈琲を飲もうとしてはそれに失敗して、なかなか日常に戻れない。

しかし珈琲と同じように、トラブルそれぞれも実は隠された意味があったりする。
主人公は賢く思いやりのある青年で、どこか甘えがあり愛情に飢えているようにも見え、そして倦怠感に包まれている。
そしておそらくは父親と母親は別れていて、母親とは疎遠になっており、主人公は父親を少なからず憎んでいるはずだ。
そんな背景を持ちつつ、それぞれのトラブルを通じて、自分は過去に背を向け殻に閉じこもっていることや、実は愛情に飢えていたことに気づきはじめる。

そのどれもが直接的ではなく間接的な描写であり、観る側の想像力をかきたててくれる。

舞台がベルリンであるというのは、物語の中でも出てくるナチスと無関係ではないし、過去と現在を意識させる舞台装置になっている。

物語の最後、遂に主人公は一杯の珈琲を飲むことができる。
その味は今までの一口とは違うんだろうなぁと思わせてくれる映画だった。

そんなことを考えながら、残った珈琲に口をつける。
僕の一杯の道のりもまた遠い。

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