"いい年になってもまだ哲学をしていて、それから抜け出すようとしない者を見たりするときに、ソクラテスよ、そんな男はもう、ぶん殴ってやらなければいけないとぼくは思うのだ"
著者・プラトン
弁証術が世に広まり力を奮う時代、それを疑問に思い問いかける男がいた。
その名は、ソクラテス。
ソクラテスの熱さはソクラテスの弁明で書いた通りだけど、あれが晩年のもので、このゴルギアスは最初期の頃の物となる。
古代アテネの民主制下において、政治の集会や法定、その他色々な場で弁証家達は議論相手や民衆を説得させていた。
しかし彼らの弁証行為は迎合であり善はなく、これっぽっちも役に立たないのだとソクラテスは言う。
他方、弁証家は哲学を冒頭の言葉で取り扱い、政治やその他公共の場において富や権力、名声の充足を行い成果をあげることが価値あることなのだと説く。
いかに(善く)生きるか、という問いと、いかに(欲を)満たすか、という問いに分けられるように思える。
自分の衝動に正直であるという点で、この2つは似ている。
善とは何であるか、より善く生きるためになすべきことは何か、といった疑問を常に持ち続け自分(真理)に忠実であろうとする道。
人間には欲がある、多くは人の羨むものであり、それを多く手にいれ欲を満たそうと、自分の欲に素直である道。
その道を突き進み到達するのは、聖人であるか破滅する人だろう。
普通の人は、2つの間を行ったり来たりする。
善いことと欲するところが同じであれば幸福であるし、悪いことだけれど欲するのであればその狭間で悩むことになるし、悪いことで欲しないところであれば、魔が刺さない限り人は行動に移さない。
言い換えれば、あなたが困っている人を見てそれを手助けすることが出来たのなら、あなたは少しの幸福を感じるかもしれないし、節約を誓ったにも関わらず欲しかったmのが安く手に入る機会が向こうからやってきたらあなたは悩むことになるだろうし、あなたが酒に酔いつぶれていない限り、朝起きたらそこは駅前の広場だったということはないだろう。きっと。
ソクラテスは常に真理を求めていた。
弁証家との議論もその心理の通過点に過ぎず、自分の考えをより確かなものにする絶好の機会であるとも捉えていた。
(その中で、いつかソクラテスが処刑されてしまうという例え話が出てくるのは、何かの暗示なのだろうか。)
そんな、常に世の中にチャレンジし続ける熱い男、ソクラテス。
雄弁に語る弁証家を蹴散らし、いつの間にか議論が彼一人で受け答えを演じていつしか長い演説が始まっていた。
とはいえ、場当たり的に議論を展開するのではなく、いくらかの規則がある。
抜き出してみると以下のような感じだろうか。
目的を決める
何について明らかにしたいか、最初に目的を述べる。
ルールを確認する
議論を始めるにあたり、どのように進めるか予め同意を形成しておく。そしてそれを時折再確認する。
部分に分ける
ある事柄について述べる時、それを分割して分割した一つ一つについて同意を得る。
統合する
同意された部分と部分から、帰納的推論を行う。
矛盾を明らかにする
AであるかBであるかを明らかにした後、相手に矛盾点がある場合それを指摘する。
アナロジーを用いる
ある事柄について述べたい時に、身近にある同じ特徴を持つ事柄を例として用いることで、相手の理解を引き出す。
整理する
定義した物事と議論の中で明らかになったことを区別し整理する。
論理的でいる
ある事柄とある事柄は正しく結合しているか注意をする。
相手を尊重する
遠慮するのではなく威圧するのでもなく、相手自身を尊重し、相互に理解が得られるよう気を配る。
建設的に進める
目的に到達する道のりを一つ一つ、組み上げていく。
忍耐力を持つ
道のりが遠くとも、根気を持って議論を重ねる。
話や議論をするのに、相手のタイプは色々いる。
中には、議論そのものが目的であったり、相手を打ち負かしたいという優越感のためであったり、自分の主張に賛成して欲しいという欲求のためであったりと、様々だ。
それは話していて相手の態度や話の運び方で見え隠れするのだけど、そういうものが見えてしまうと、なんでだろう、と思う。
議論そのものが目的なのは、単にお喋り好きなんだろうか。
優越感に浸りたいのは、自分が相手より優位にいることを確認して安心したいのだろうか。
賛成して欲しいのは、自分の考えに自信が無いからだろうか。
少なくともソクラテスは、真理のために議論を重ねていたみたいだ。
本書中にあるような対話をするには相当な訓練が必要だろうし、これと比較すれば日常ある議論とは単に意見交換がほとんどなのかもしれない。
というか、彼の話を聞くにはかなりの根気が必要なのは間違いない。どんだけ話すねんソクラテス。
生と不正、美と醜、善と悪、そうした事柄を哲学した熱い男の話を聞きたければ、どうぞ。
著者・プラトン
弁証術が世に広まり力を奮う時代、それを疑問に思い問いかける男がいた。
その名は、ソクラテス。
ソクラテスの熱さはソクラテスの弁明で書いた通りだけど、あれが晩年のもので、このゴルギアスは最初期の頃の物となる。
古代アテネの民主制下において、政治の集会や法定、その他色々な場で弁証家達は議論相手や民衆を説得させていた。
しかし彼らの弁証行為は迎合であり善はなく、これっぽっちも役に立たないのだとソクラテスは言う。
他方、弁証家は哲学を冒頭の言葉で取り扱い、政治やその他公共の場において富や権力、名声の充足を行い成果をあげることが価値あることなのだと説く。
いかに(善く)生きるか、という問いと、いかに(欲を)満たすか、という問いに分けられるように思える。
自分の衝動に正直であるという点で、この2つは似ている。
善とは何であるか、より善く生きるためになすべきことは何か、といった疑問を常に持ち続け自分(真理)に忠実であろうとする道。
人間には欲がある、多くは人の羨むものであり、それを多く手にいれ欲を満たそうと、自分の欲に素直である道。
その道を突き進み到達するのは、聖人であるか破滅する人だろう。
普通の人は、2つの間を行ったり来たりする。
善いことと欲するところが同じであれば幸福であるし、悪いことだけれど欲するのであればその狭間で悩むことになるし、悪いことで欲しないところであれば、魔が刺さない限り人は行動に移さない。
言い換えれば、あなたが困っている人を見てそれを手助けすることが出来たのなら、あなたは少しの幸福を感じるかもしれないし、節約を誓ったにも関わらず欲しかったmのが安く手に入る機会が向こうからやってきたらあなたは悩むことになるだろうし、あなたが酒に酔いつぶれていない限り、朝起きたらそこは駅前の広場だったということはないだろう。きっと。
ソクラテスは常に真理を求めていた。
弁証家との議論もその心理の通過点に過ぎず、自分の考えをより確かなものにする絶好の機会であるとも捉えていた。
(その中で、いつかソクラテスが処刑されてしまうという例え話が出てくるのは、何かの暗示なのだろうか。)
そんな、常に世の中にチャレンジし続ける熱い男、ソクラテス。
雄弁に語る弁証家を蹴散らし、いつの間にか議論が彼一人で受け答えを演じていつしか長い演説が始まっていた。
とはいえ、場当たり的に議論を展開するのではなく、いくらかの規則がある。
抜き出してみると以下のような感じだろうか。
目的を決める
何について明らかにしたいか、最初に目的を述べる。
ルールを確認する
議論を始めるにあたり、どのように進めるか予め同意を形成しておく。そしてそれを時折再確認する。
部分に分ける
ある事柄について述べる時、それを分割して分割した一つ一つについて同意を得る。
統合する
同意された部分と部分から、帰納的推論を行う。
矛盾を明らかにする
AであるかBであるかを明らかにした後、相手に矛盾点がある場合それを指摘する。
アナロジーを用いる
ある事柄について述べたい時に、身近にある同じ特徴を持つ事柄を例として用いることで、相手の理解を引き出す。
整理する
定義した物事と議論の中で明らかになったことを区別し整理する。
論理的でいる
ある事柄とある事柄は正しく結合しているか注意をする。
相手を尊重する
遠慮するのではなく威圧するのでもなく、相手自身を尊重し、相互に理解が得られるよう気を配る。
建設的に進める
目的に到達する道のりを一つ一つ、組み上げていく。
忍耐力を持つ
道のりが遠くとも、根気を持って議論を重ねる。
話や議論をするのに、相手のタイプは色々いる。
中には、議論そのものが目的であったり、相手を打ち負かしたいという優越感のためであったり、自分の主張に賛成して欲しいという欲求のためであったりと、様々だ。
それは話していて相手の態度や話の運び方で見え隠れするのだけど、そういうものが見えてしまうと、なんでだろう、と思う。
議論そのものが目的なのは、単にお喋り好きなんだろうか。
優越感に浸りたいのは、自分が相手より優位にいることを確認して安心したいのだろうか。
賛成して欲しいのは、自分の考えに自信が無いからだろうか。
少なくともソクラテスは、真理のために議論を重ねていたみたいだ。
本書中にあるような対話をするには相当な訓練が必要だろうし、これと比較すれば日常ある議論とは単に意見交換がほとんどなのかもしれない。
というか、彼の話を聞くにはかなりの根気が必要なのは間違いない。どんだけ話すねんソクラテス。
生と不正、美と醜、善と悪、そうした事柄を哲学した熱い男の話を聞きたければ、どうぞ。
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