もう2月

気がつけば睦月は終わり如月。
睦びなど一瞬のこと、あれよあれよとカレンダーは捲られ、まだまだ重ね着することから呼ばれる如月に。
立春前後では3月並みの気温になり春は目の前かと思う日もあれば、まだまだ粉雪が舞うような今日この頃ですね。
すっかり更新も滞りお正月モードのままであったこのブログ。

そろそろ更新しなければなぁと思い、つらつらと最近読んだ本について書いていたら無用に長くなってしまいました。
はて、去年の今頃も駄文を貪ってたような。

ということでこの先は暇人の貴方や貴女にお届けいたします。
お時間のあるお方はタイトルをクリック。

(続きはタイトルをぽちり)


冒頭から文調がいつもと変わってしまっているので、このまま続行してしまいます。
さて、まずは1冊め。

100の思考実験:




100のトピックスを挙げて考察を促そうというこの本。
それぞれのトピックにおいて引用文を用いて、疑問を投げかけていく進行です。

"ヒュー、ドルー、ルー、スーの四兄弟は、世界中を旅してまわるあいだ、全員が定期的に手紙を書いて様子を知らせる事を母親に約束した。
ヒューは手紙を書いたものの、投函をいつもほかの人達に頼み、その人達の誰も投函しなかった。だから、母親は一通もヒューの手紙を受け取らなかった。
ドルーは手紙を書き、自分で投函したものの、もう使われなくなったポストに入れてしまい、おまけに切手の料金不足やほかのミスもあったため、一通も届かなかった。
ルーは手紙を書き、毎回きちんと投函したが、いつも郵便システムの不備に見舞われた。母親がルーの様子を知る事は無かった。
スーは手紙を書き、毎回きちんと投函し、そのうえで電話で短いやりとりをして着いたかどうか確認した。それなのに、一通も届いていなかった。
四人の兄弟のうち、母親との約束を果たした子はいるのだろうか?"


例えばこんなお題があります。
母親との約束を果たしたといえる兄弟は誰でしょうか?残念ながら、母親の手元には誰からも手紙が届きませんでした。それはつまり"手紙で様子を知らせる"という約束は果たされなかったということを意味します。
しかし待って下さい。結果だけ切り取って、そう判断できるでしょうか。
スーは自分で出来る事は全て行ったものの、結果として手紙は届きませんでした。自分の手元から離れた原因の責任も、スーは抱えなければいけないのでしょうか?
ルーはやるべき事は相応にやっているでしょうし、ドルーは努力したものの多少のミスがあったようです。ヒューは最低限のことをしましたが、少々気持ちに欠ける印象を持ちはします。
こうした事情を聞けば、母親はどの兄弟を咎めるようなことはしないでしょう。ヒューはちょっと呆れられるかもしれないけれど。
手紙であれば他愛のないことでしょう。しかし、仮にもしこれが核攻撃の命令を取り消す場合だったら?
極端な例かもしれないけれど、扱う問題により、"やるべき事"の境界について、その重みはぐんと増します。
この例題で問うべき事柄はこうだと、本書は示すのです。
すなわち、「どの時点で、わたしたちは道徳的責任を果たしたといえるのか?」
もしあなたが誰かから何か頼まれたとした場合、その結果についてどこまで責任を持つべきなのでしょうか。
普遍性を取り出すと、この倫理的問題は、何とも悩ましいテーマに様変わり。
手紙に関していえばわたくしの感想は前述の通りで、依頼に対する結果の問題は、その事柄で変化しそうなものです。
つまりこうした道徳に纏わる問題は、普遍的な性質を求めつつも、現実問題としてその事柄によりある程度の柔軟さが必要なように思えます。
こうすると、ご都合主義だとか言われてしまいそうですね。
この本では、こうした様々なテーマからこうした妄想をもくもくと沸き起こす道具なのです。

そんな妄想ばかりに更けていてどうする。嗚呼、妄想の世界から抜け出したい!
そう思ったとしても思わなかったとしても、今こんな本があります。

スタンフォードの自分を変える教室:




人間は変わらない、と言ってしまうのは簡単だけれども、その言葉の説得力を支える、人間の持つその性質を教えてくれるのがこの本です。
動かざること山の如しを地で行く私めとしては、自分でいうのもなんですが本当になかなか変わらぬ人間であるように思えます。
変化を嫌悪しダーウィン先生に背を向けたわたくしは、時代に淘汰され絶滅していく種かと思いきや、反旗を翻し、かのナポレオンの如く"俺が状況を作るのだ"とのたまう事があったりなかったり。
まぁ世の中にはそうした(どうした?)人が多いようで、なかなか思う様に、持続的に物事に取り組めなく悩んでいる人々がこの本を手に取っているようです。(はい、わたくしもその一人です。)
自己啓発の本など唾棄すべき対象であるという姿勢から過去その手の本を読む事無く啓発されずに来たわたくしですが、遂に何を思ったか、昨今輸入著しい"某有名大学の教室シリーズ"、と言ってしまうとなにやら安いAVタイトルだなぁ、とか思いながらもそのブランドバリューの罠にかかる日本人の輪に踊る様に入ったわけです。
あ、サンデル教室に既に参加してたからこのシリーズ初めてでは無かった。

ともかく、内容はというとさすが人気教室、論理的かつ科学的に説得力を持って人間の性質を説いているので、そうした"わたし"を認識することで行動の変化にチャレンジできる内容になっております。
では見事自分を変えられたのか?と問われればわたくしはこう答えます。
"いいえまったく。"
TIPSとしての本の内容は役に立つものであり、生活の中でそれに意識的であり続ければ、それは変化をもたらすよう思えます。
しかしそれは目新しいものではなく、なんとなくみんなが知っている事でもあります。
つまり結局は、あなたが変えたいと思うこと自体、その強度にかかっているのです。
これはいくら言葉を並べても暖簾に腕押しというやつでしょう。
じゃあお前はなんのために本を読んだのかと問われれば、興味が湧いたから、というやつです。

かの坂口安吾も言っております。
"人は正しく墮ちる道を墮ちきることが必要なのだ。墮ちる道を墮ちきることによって自分自身を発見し、救われなければならない。"


さあ良い感じで取留めない感じになってきたところで次の本です。

三酔人経綸問答:




中江兆民といえば大久保利通に直訴し岩倉使節団の一員となりフランス思想を意気揚々と持ち帰り、自由民権運動で大きな影響を及ぼしたお方。
たまたま見たNHKの"日本人は何を考えてきたのか"という番組でこの本の存在を知るところとなりました。
内容はというと、南海先生と、先生を尊敬する"洋学紳士君"と"豪傑君"なる3人が酒を飲み交わし、政治等々を論ずるというもの。
本が発刊されたのは1887年。大日本帝国憲法が発布された2年前であり、自由民権運動を機に、国のあり方についての議論の渦中にありました。
紳士君は進化の理法を掲げて理論を論じ、豪傑君は現実を捉えて技術を論ずる。そうしてとっくり2人の主義を聞いた南海先生は何とするか。
主義の異なる3人を登場させそれぞれの立場から語らせる、いわゆる思考実験の体を取る本書は自由奔放に論が飛びます。論だけでなく、熱弁を振るってアルコール臭のする唾も飛び交っていることも妄想に容易いです。
当時の歴史的背景と合わせて読み解くことで、より一層にその意義の深さが感じ取れそうですが、未だその力及ばず。

そうこうしている内に、次に飛び乗った本はこちらです。

ゼロからわかる経済の基本:




経済という渦の中の一端で生計を立てながらもついついその視点を失ってしまいます。
そんなときは、ゼロが良いゼロになろう、もう一回! とB'zの歌を口ずさみながら本書を取りましょう。
経済についてほどほどの距離感でその動きを教えてくれます。
経済学においてモデルとされる消費者人物の行動はある程度説得力がある一方、本当にそう動くか?という疑問はついてまわるもので、ともすればこの基本モデルを読み違う事でその論理が明後日の方向に行ってしまう恐れがありそうなものですが、そうした興味深い心理については行動経済学カバーしてくれるはずで、より生活に密着した経済について語られていることから、マクロ経済とかミクロ経済とかよりもこちらのほうがわたしは好きです。
唐突に話が逸れましたが、経済とは人の存在とそれが構築する市場(社会)における資本の動きととりあえず言えるでしょうから、その要因たるや複雑怪奇で風呂敷を広げると収拾がつきません。
なので、一般的に認識される範囲ではこうだよね、というところの経済の動きは本書の言うところであり、経済の基本的な形をそう認識するのには十分なのであります。
複雑怪奇なものは学者先生にお任せです。


まあとにかくこうした類いの本は読んでその内に忘れてしまうでしょうから、最後にこれだけ紹介しておきます。

ビブリア古書堂の事件手帖:




昨年友人から借りた本ですが借りパクする勢いで年を越し、やっとこさ読んだ次第です。
既に広く知れ渡りその人気ぶりは知るところであったものの、それを除いても妙に話題になっているなぁと思っていたら、ドラマ化されてるんですね。
大変な改竄が施されたとかされてないとか噂が飛び交っていますが、実際どうなんでしょうね。見ないけど。
本書はといえば、本は好きだけど読めない武闘派の男が、普段は対人恐怖症かと思われるものの、本の話になるとシャーロックホームズばりの洞察力と本の知識量とで、じっちゃんの名にかけて謎を解いたりする推理小説です。
ユニークなのは現実にある本が話の中で使われており、事件の鍵になっていたり、その本の物語について語られたりと、ついついその本に興味が移ります。

著者が伝えたいその気持ちはどこか既視感のあるものだなぁと思っていたら、それは角田光代さんの「さがしもの」 で読んだそれと同じだと思い当たりました。

自分にとって、自分なりの"本との物語"
そんな本が一冊でも多くあると、読書が楽しくなりそうですね。

ちょっと思い返してみよ。

さあ綺麗にまとめたつもりになって終いにします。長文お疲れ様でございました。

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