奇術

もし人生というものが単なる、しかし本物の奇術であったなら、その奇術師に賛辞を贈りたい。
A.B. #3436

vi

喜びにも皮肉にも聞こえるフレーズ。

何もない場所から何かを出したり、逆に何かあるものを跡形も無く消してしまったり。
それを失望や希望、もしくは誕生や死去に重ねてみたりして。

人生を生きていくのに驚きは付き物だ。
まるで考えてもいなかったような事がある時起きたりもする。
良い事も悪い事も。
そうした目の前で起きていく出来事にどんな感情を持つだろう。
そうしたことは偶然なのだろうか、必然なのだろうか。
そんな、それぞれの不思議を体験しながら、年を重ねて行く。

奇術にはネタや仕掛けがある。でも人生にはネタも仕掛けもない。
仮に運命という仕掛けがあったとしても、本物の奇術の前でそれは暴けない。

そうであるなら、やはり僕らは、ただただ驚いて、賛辞を贈るべきなのだろうか。
良い奇術だったら、そうだろう。でも悪い奇術だったら?

一つ言えるのは、奇術は観客がいてこそ成り立つ。
良い奇術でも悪い奇術でも、それが観客にとって心から喜ばしいものであれば、その奇術師は観客から賛辞が贈られるだろう。
観客の受け取り方こそが、奇術を良くも悪くもするのだ。

そう思うと、このメッセージの作者は、例え人生が奇術によるものだとしても、良い人生だと確信してるに違いない。
賛辞の中身が皮肉でないならば、ね。


ところで書き出しの時点ではこんなことを書く予定もなかったのだけど、まあこういうところが思いつきらしいところだなぁ。

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