"僕のなかの壊れていない部分"を手にしたときから、頭の隅っこに居続ける白石さん。
今回、立て続けに彼の本を読み耽っていると、ずぶずぶと自分の中に空いた穴へおちていってしまう、そんな感覚に陥ってしまった。
白石小説の物語に出てくる登場人物達は、金も地位も権力も能力も容姿も優れているものばかりで、おまけに不倫や権力闘争や暴力沙汰など、非日常的なもので溢れている。
全く以て親近感の湧かない環境だし(小説なので当たり前だが)遠い世界の話を見せられている感じだ。
しかし読み進めていくと共感は募り自問が始まってしまうのだ。
白石氏が登場人物に語らせる言葉の数々は、自分の中にある、うまく表現できない思いを言葉で切り取って示してくれるような、ありありとした現実感を与えてくれる。
そうした、曖昧にすることないシャープな言葉を次々と投げかけられて行くうちに、いつのまにか思考は引きずられて掻き乱されて、意識がどっぷりと自分の中へ沈んでいってしまう。
(続きはタイトルをぽちり)
思えば僕は真に人のことを信じたこともなければ愛したこともないのではないか。
世の中に対して心の底から期待なんてしちゃいないのかもしれない。
そうして自分に裏切られながら生きているのかもしれない。
でも裏返せば誰かを信じたいし愛したい。それは結局のところ、自分を信じてなければ愛してもいないだけなのではないだろうか。
そうしたことを見ないようにわざと避けて楽しくやっていたかった。
一方で自分の矛盾性に苦しめられ続けて行く。
それは不確かな事ばかりに対する不安であり、確かな確証が欲しいという願望なのだろう。
僕たちは自分を通してでしか、世界を見ること触れることが叶わない。
人が手に入れたものを羨んでいても、それは決して自分のものになったりなんかしない。
自分を通して世界との繋がりや実感を積み重ねていくことしか出来ない。
そうした確かさというのは、ある一瞬の内にあるのだろう。
それを掴み取って大事にして築き上げて行く。
そうした繰り返しで、確かな自分が姿形になっていくのかもしれない。
例えば死について考えたらどうだろう。
僕は心のどこかで常々、死ぬなら人知れずにそっと、今まで世界に自分がいなかったかのように去っていきたいと自分勝手に思うのだ。
その一方で、本当に死が目の前に現れた時、これと同じ事を思うかは疑問だ。というかきっと思わないんだろう。
そのときはみっともないまでに生にしがみつくような気もする。まだ死にたくないんだと。
死の存在が生を輝かせ、死への恐怖が生への活力を生む。
こうした脆弱でありふれた考えは、当然死を実感として捉えた事がないからだろう。
死に関する漠然としたイメージがあって、いつか死ぬと考えてはいても、結局は日々目前のことに意識は奪われる。
そうした、自己に纏わるどうしようもない問題を心のすみに放り投げてそのままにしているものを、否が応でも喚起させられてしまうのだ。
小説というものは架空の物語であり、結局は、現実に満足できない、時間を持て余しているといった人達が、簡単に非日常の世界を観察する手段であり、現実と結びつけることはあってもそこにあるのは空虚な試みでしかないのではないかとたまに思う。
白石氏も言っている。
"憂き世の辛さを晴らすなら冒険小説を読むより冒険をした方がいいし、官能小説を読むよりはやはり本気でセックスに励んだ方がいい。様々な世界を知りたいなら足を使って出かけた方がいいし、多くの言語を学んで世界中の人たちと話せるようになった方がいい。ものの考え方は哲学者や物理学者の著作で系統的に学習すべきだろうし、人の心を知りたいなら思いきり人を憎んだり愛したりした方がいいだろう。心の平安が欲しい人は、何よりもまず信仰を持つべきだと私は思う。"
これは誰でも頷くことだろう。
だが一方で、必ずしもそう限らないようにも思える。その後も白石氏は続けている。
"誰しもが持つ自分自身の生きている姿そのものへのある種の肯定にこそ小説の基盤があるのではないか"
心の機微や思考を言語化しまざまざと見せつけらる時。矛盾や悲しみに満ちた物語の様相を見せつけられる時。
いつしか自分自身への問いかけが始まっている。
先ほど僕は、真に人を信じたことも愛したこともないのではないかと書いた。
これは半分正しくて半分間違っているんだろう。
僕は(ありがたいことに)、周りにいる人達との繋がりを持っている。いつかは風化するのかもしれないし、ますます強固に結ばれるのかもしれない。
信じたことがないなんて書くと怒られてしまいそうだけど、そうした繋がりを紡いでいくのは他ならぬ自分自身なのだ。
そこにあるのは否定の力ではない。むしろ肯定の力だ。
僕は時折、そうした自分の中にある否定と肯定の狭間を彷徨っているような気がする。
例えば今この時、"僕"だなんて書いてさもそういった装いに仕立てて取留めも無い日記を綴ろうとする欺瞞に辟易すれば、その時の心境の一端を記録しておくことは意味があることだとも思う自分がいる。
例えば今この時、生死だなんてことを考える暇があればいま目の前のやるべきことを考えろと思う一方で、そうした事柄を等閑にするのは正しい姿勢なのだろうかと思う自分がいる。
人は移り変わるものだろうし、瞬間を微分していけば全く同じ人間なんていないのだろう。
けれど、その瞬間にある実感を大切にしていくことは、とても重要なことに思える。
どうしようもなく哀しくなりながら、向き合うべきことを考えながら、そんな当たり前の事を改めて思うのです。
最近読んだ本たちはこちら。
一瞬の光
不自由な心
私という運命について
草にすわる
すくそばの彼方
もしも、私があなただったら
どれくらいの愛情
永遠のとなり
心に龍をちりばめて
この胸に深々と突き刺さる矢を抜け
この世の全部を敵に回して
ほかならぬ人へ
今回、立て続けに彼の本を読み耽っていると、ずぶずぶと自分の中に空いた穴へおちていってしまう、そんな感覚に陥ってしまった。
白石小説の物語に出てくる登場人物達は、金も地位も権力も能力も容姿も優れているものばかりで、おまけに不倫や権力闘争や暴力沙汰など、非日常的なもので溢れている。
全く以て親近感の湧かない環境だし(小説なので当たり前だが)遠い世界の話を見せられている感じだ。
しかし読み進めていくと共感は募り自問が始まってしまうのだ。
白石氏が登場人物に語らせる言葉の数々は、自分の中にある、うまく表現できない思いを言葉で切り取って示してくれるような、ありありとした現実感を与えてくれる。
そうした、曖昧にすることないシャープな言葉を次々と投げかけられて行くうちに、いつのまにか思考は引きずられて掻き乱されて、意識がどっぷりと自分の中へ沈んでいってしまう。
(続きはタイトルをぽちり)
思えば僕は真に人のことを信じたこともなければ愛したこともないのではないか。
世の中に対して心の底から期待なんてしちゃいないのかもしれない。
そうして自分に裏切られながら生きているのかもしれない。
でも裏返せば誰かを信じたいし愛したい。それは結局のところ、自分を信じてなければ愛してもいないだけなのではないだろうか。
そうしたことを見ないようにわざと避けて楽しくやっていたかった。
一方で自分の矛盾性に苦しめられ続けて行く。
それは不確かな事ばかりに対する不安であり、確かな確証が欲しいという願望なのだろう。
僕たちは自分を通してでしか、世界を見ること触れることが叶わない。
人が手に入れたものを羨んでいても、それは決して自分のものになったりなんかしない。
自分を通して世界との繋がりや実感を積み重ねていくことしか出来ない。
そうした確かさというのは、ある一瞬の内にあるのだろう。
それを掴み取って大事にして築き上げて行く。
そうした繰り返しで、確かな自分が姿形になっていくのかもしれない。
例えば死について考えたらどうだろう。
僕は心のどこかで常々、死ぬなら人知れずにそっと、今まで世界に自分がいなかったかのように去っていきたいと自分勝手に思うのだ。
その一方で、本当に死が目の前に現れた時、これと同じ事を思うかは疑問だ。というかきっと思わないんだろう。
そのときはみっともないまでに生にしがみつくような気もする。まだ死にたくないんだと。
死の存在が生を輝かせ、死への恐怖が生への活力を生む。
こうした脆弱でありふれた考えは、当然死を実感として捉えた事がないからだろう。
死に関する漠然としたイメージがあって、いつか死ぬと考えてはいても、結局は日々目前のことに意識は奪われる。
そうした、自己に纏わるどうしようもない問題を心のすみに放り投げてそのままにしているものを、否が応でも喚起させられてしまうのだ。
小説というものは架空の物語であり、結局は、現実に満足できない、時間を持て余しているといった人達が、簡単に非日常の世界を観察する手段であり、現実と結びつけることはあってもそこにあるのは空虚な試みでしかないのではないかとたまに思う。
白石氏も言っている。
"憂き世の辛さを晴らすなら冒険小説を読むより冒険をした方がいいし、官能小説を読むよりはやはり本気でセックスに励んだ方がいい。様々な世界を知りたいなら足を使って出かけた方がいいし、多くの言語を学んで世界中の人たちと話せるようになった方がいい。ものの考え方は哲学者や物理学者の著作で系統的に学習すべきだろうし、人の心を知りたいなら思いきり人を憎んだり愛したりした方がいいだろう。心の平安が欲しい人は、何よりもまず信仰を持つべきだと私は思う。"
これは誰でも頷くことだろう。
だが一方で、必ずしもそう限らないようにも思える。その後も白石氏は続けている。
"誰しもが持つ自分自身の生きている姿そのものへのある種の肯定にこそ小説の基盤があるのではないか"
心の機微や思考を言語化しまざまざと見せつけらる時。矛盾や悲しみに満ちた物語の様相を見せつけられる時。
いつしか自分自身への問いかけが始まっている。
先ほど僕は、真に人を信じたことも愛したこともないのではないかと書いた。
これは半分正しくて半分間違っているんだろう。
僕は(ありがたいことに)、周りにいる人達との繋がりを持っている。いつかは風化するのかもしれないし、ますます強固に結ばれるのかもしれない。
信じたことがないなんて書くと怒られてしまいそうだけど、そうした繋がりを紡いでいくのは他ならぬ自分自身なのだ。
そこにあるのは否定の力ではない。むしろ肯定の力だ。
僕は時折、そうした自分の中にある否定と肯定の狭間を彷徨っているような気がする。
例えば今この時、"僕"だなんて書いてさもそういった装いに仕立てて取留めも無い日記を綴ろうとする欺瞞に辟易すれば、その時の心境の一端を記録しておくことは意味があることだとも思う自分がいる。
例えば今この時、生死だなんてことを考える暇があればいま目の前のやるべきことを考えろと思う一方で、そうした事柄を等閑にするのは正しい姿勢なのだろうかと思う自分がいる。
人は移り変わるものだろうし、瞬間を微分していけば全く同じ人間なんていないのだろう。
けれど、その瞬間にある実感を大切にしていくことは、とても重要なことに思える。
どうしようもなく哀しくなりながら、向き合うべきことを考えながら、そんな当たり前の事を改めて思うのです。
最近読んだ本たちはこちら。
一瞬の光
不自由な心
私という運命について
草にすわる
すくそばの彼方
もしも、私があなただったら
どれくらいの愛情
永遠のとなり
心に龍をちりばめて
この胸に深々と突き刺さる矢を抜け
この世の全部を敵に回して
ほかならぬ人へ
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