柳澤桂子氏の"生命の奇跡―DNAから私へ"を読み、生命科学の広さと深さを痛感し、往生してしまってから半年余り。
再度その分野の本を読んでみた。
んが。やはり、仔細にして広大。
深淵すぎて、読み取れるところはごくごく浅瀬なわけで。
そんな浅瀬に立ちつくすものの、以下にめも。
まず最初に読んだ本は、生物をサイズの観点から眺めてみよう、という本だ。
(続きはタイトルをぽちり)
"ヒトがおのれのサイズを知る、これは人間にとって、もっとも基本的な教養であろう。"
著・本川達雄
生物をサイズの観点から眺めてみよう、というこの本。
各章で切り口を変え、サイズから見る生物の不思議を教えてくれる。
まず、著者である本川氏は生物学を専門としている。
生物学とは何か。Wikipediaで概要を見ると、こうある。
"生物の多様性と生命現象の普遍性を理解することが生物学・生命科学の目的"
ううむ、分かる様な分からない様な、、
一応の解釈をしてみれば、「地球上には何故こんなにもの種類の生物がいて、それがどんな意味を持つのか。そしてそれぞれに共通する事柄はなにか。」という風に読んでみる。
この読みと本書を照らし合わせると、「体のサイズの違いと生命活動の関係を考え、それぞれの相関や法則を見てみよう」という趣旨だ。
サイズの大小からくる生物的なメリットやデメリットを皮切りに、色々な切り口から生物を見てみる。
例えば、アロメトリーと呼ばれる、部分を全体のサイズの指数関数として近似して書き表すやり方があるが、それを用いた説明の一部にこんなものがある。
-時間は体重の1/4乗に比例する。つまり、物理的時間とは別に、生理的時間は各々の動物により異なる。
この1/4乗法則が数々の場合に当てはめられ、そこから分かる一つには、哺乳類は一生の間に心臓は20億回打ち、呼吸は5億回する、という事がある。
どんな哺乳類でも、20億回心臓が鼓動したら止まってしまうのだ。
相手を驚かせた時に、「寿命が縮まった!」というのはあながち嘘ではないようだね。
他にも、こんな法則がある。
-標準代謝量は高温動物、変温動物、脊椎動物、無脊椎動物、多細胞、単細胞かかわらず、それぞれ体重の3/4乗に比例する。
つまりその生物が使用するエネルギー量はその体重に比例している。
しかし、体重1kgあたりの、一生の間の総エネルギー使用量は、サイズや寿命の長さによらず同じらしい。
小さなものは激しく燃え尽き、大きなものは雄大に過ごす。
しかし人間は、その法則上にある必要なエネルギー量と実際のエネルギー量が乖離しており、同じサイズの生物に比べると異質である、と著者は紹介する。
こうした法則があるのは驚き。
日々を物理的な時間に捕われてはいるものの、生物は自己の時間を持っていて、その内で一生を全うすることを、生物学は教えてくれる。
他にも色々と興味深い話がある。
バクテリアを除き、生物界にはなぜ車輪がないのだろうかという話に納得したり、レノイズ数という慣性力と粘性力の比の指標に見るミクロな世界に驚いたり。
サイズが異なることで生物の世界はこうも変わるけれど、しかし法則も確かに存在するようだ。
そうした一面をこの本は示してくれる。
生物のサイズによる違いと関連は、なるほどそうした事があるのか。
でもさ、もっとサイズに深入りするとどうなるの? 物理的なサイズの大元となる、原子を考えるとどうなる?
(うーん、ちょっと強引だったかな。)
なぜ原子はそんなに小さいのか?
言い改めると、われわれの身体は原子にくらべて、なぜ、そんなに大きくなければならないか?
そう問いを発したのが、かの悪名高い"波動方程式"を世に送り出したシュレーディンガー先生である。
シュレーディンガーの猫と称されるその思考実験は、いたいけもない猫を箱に閉じ込め量子論の道具にして、「死んだかな?生きてるかな?どっちかな?」と猫の運命を蹂躙するというドSぶりを発揮して憚らない。
そうしたデンジャラスな性癖をもつシュレーディンガー先生が世に放った波動方程式というラビリンスのような数式を目の前に、幾多の学生達が涙を飲んだ事か。
かの森見先生も、猫が可哀想であると言っている。
さて冗談はここまでにして、シュレーディンガーは前述の問いに対する答えとして、いくつかの例をあげる。
一つは、粒子が絶え間なく不規則な動きをする「ブラウン運動」
もう一つは、「拡散」と呼ばれ、濃度勾配をもたらしつつもやがては一様に広がり平衡状態に達する、秩序の有り様だ。
うん、訳が分からない。
まず、この拡散は全体が平衡状態に達する前に、ある個体を見るとまったく逆の運動をするという。
これが原子レベルで起きることなので、生命体において、こうした「誤差」を小さくする必要がある。原子サイズに近ければ、こうしたこの誤差は秩序に致命的な影響を及ぼすことになる。
そうした理屈から、生命体の秩序を維持するためにも、「生物はこんなに大きい」必要があるとされている。
そして、秩序を維持するという話から、エントロピーが出てくる。
結論をいえば、生物は食物を食べる事で、エントロピー増大に対抗する力を生み出している。
さて話をはしょり過ぎて意味不明になった。
この話の展開はここで置いておいて、これを紹介している本が次だ。
"私たちは遺伝子をひとつ失ったマウスに何事も起こらなかったことに落胆するのではなく、何事も起こらなかったことに驚愕すべきなのである。"
著・福岡伸一
先ほどの本ではサイズの面から生物を見た。
本書は、そもそも生物(生命)ってなによ?という点から出発する。先に出した原子の話と同質の、根本的な問いだ。
この問いを抱え、本書は著者の過ごした研究時代を旅して、歴代の研究者達の挑戦と疑惑と隠れた栄誉をはさみつつ、その遷移をなぞりながら、問いの確信へと迫って行く。
著者が考察した内容をまとめてしまうと、次の様に言える。
生命とは何か?
それは自己複製を行うシステムであり、柔らかな適応力となめらかな復元力の大きさを備える動的な平衡で維持された秩序であり、自身がもつ時間がそこに折りたたまれて在るものである。
さあどうだ、訳分からんでしょう!俺もだ!
自己複製の話ではDNAの研究が紹介される。
ヘラクレイトスを彷彿させる動的平衡の話では、最初にあげたシュレーディンガーを発端とした秩序の話として、タンパク質の研究が紹介される。
前の本でも触れられていた生物の時間の話では、著者の研究と少年時代からくる実体験が紹介される。
これら一つ一つを本書で確かめ、著者が考察する内容をなぞることで、少しだけその意味するところに触れることが出来た。
それぞれの話は研究の遷移をおって語られる、いわば回顧録的なところがある。小難しい数式は退けられ、時に雄弁な語り口で話が進む。
それは研究に関する紹介が不十分であることを意味するのではなく、むしろそれぞれが示す生命の不思議をそこに発見する。
また、ところどころにある研究における姿勢や彼らが陥る罠、その罠にはまった野口英世のお話があったりもして、研究とはかくも地道な挑戦なのかということを垣間みる。
雑学的な要素もある前書と比較し、歴史を振り返りながら歩み、先ほどの答えに近づこうとする本書であるので、各項の紹介は伏せておく。
以上まとめると、「ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学」ではサイズの違いから、生物学の世界はこんな感じ!というトリビア的な楽しみ方ができるのに対して、「生物と無生物のあいだ」では生命への問い対する、研究の遷移を俯瞰し著者なりの答えに迫ろうとする物語を楽しめる。
そして今日のナショナルジオグラフィック日本語サイトのニュース記事にあるように、ロシア調査チームが世界で初めて、南極で最大の、地下4kmもの深さにある氷の中の湖に達した事が分かった。
これにより、太古の微生物がそこで発見されるかもしれない。
今後の調査で、生物についてまた一つ知見が広がりそうだね。どんな結果が待っているんだろう。
再度その分野の本を読んでみた。
んが。やはり、仔細にして広大。
深淵すぎて、読み取れるところはごくごく浅瀬なわけで。
そんな浅瀬に立ちつくすものの、以下にめも。
まず最初に読んだ本は、生物をサイズの観点から眺めてみよう、という本だ。
(続きはタイトルをぽちり)
"ヒトがおのれのサイズを知る、これは人間にとって、もっとも基本的な教養であろう。"
著・本川達雄
生物をサイズの観点から眺めてみよう、というこの本。
各章で切り口を変え、サイズから見る生物の不思議を教えてくれる。
まず、著者である本川氏は生物学を専門としている。
生物学とは何か。Wikipediaで概要を見ると、こうある。
"生物の多様性と生命現象の普遍性を理解することが生物学・生命科学の目的"
ううむ、分かる様な分からない様な、、
一応の解釈をしてみれば、「地球上には何故こんなにもの種類の生物がいて、それがどんな意味を持つのか。そしてそれぞれに共通する事柄はなにか。」という風に読んでみる。
この読みと本書を照らし合わせると、「体のサイズの違いと生命活動の関係を考え、それぞれの相関や法則を見てみよう」という趣旨だ。
サイズの大小からくる生物的なメリットやデメリットを皮切りに、色々な切り口から生物を見てみる。
例えば、アロメトリーと呼ばれる、部分を全体のサイズの指数関数として近似して書き表すやり方があるが、それを用いた説明の一部にこんなものがある。
-時間は体重の1/4乗に比例する。つまり、物理的時間とは別に、生理的時間は各々の動物により異なる。
この1/4乗法則が数々の場合に当てはめられ、そこから分かる一つには、哺乳類は一生の間に心臓は20億回打ち、呼吸は5億回する、という事がある。
どんな哺乳類でも、20億回心臓が鼓動したら止まってしまうのだ。
相手を驚かせた時に、「寿命が縮まった!」というのはあながち嘘ではないようだね。
他にも、こんな法則がある。
-標準代謝量は高温動物、変温動物、脊椎動物、無脊椎動物、多細胞、単細胞かかわらず、それぞれ体重の3/4乗に比例する。
つまりその生物が使用するエネルギー量はその体重に比例している。
しかし、体重1kgあたりの、一生の間の総エネルギー使用量は、サイズや寿命の長さによらず同じらしい。
小さなものは激しく燃え尽き、大きなものは雄大に過ごす。
しかし人間は、その法則上にある必要なエネルギー量と実際のエネルギー量が乖離しており、同じサイズの生物に比べると異質である、と著者は紹介する。
こうした法則があるのは驚き。
日々を物理的な時間に捕われてはいるものの、生物は自己の時間を持っていて、その内で一生を全うすることを、生物学は教えてくれる。
他にも色々と興味深い話がある。
バクテリアを除き、生物界にはなぜ車輪がないのだろうかという話に納得したり、レノイズ数という慣性力と粘性力の比の指標に見るミクロな世界に驚いたり。
サイズが異なることで生物の世界はこうも変わるけれど、しかし法則も確かに存在するようだ。
そうした一面をこの本は示してくれる。
生物のサイズによる違いと関連は、なるほどそうした事があるのか。
でもさ、もっとサイズに深入りするとどうなるの? 物理的なサイズの大元となる、原子を考えるとどうなる?
(うーん、ちょっと強引だったかな。)
なぜ原子はそんなに小さいのか?
言い改めると、われわれの身体は原子にくらべて、なぜ、そんなに大きくなければならないか?
そう問いを発したのが、かの悪名高い"波動方程式"を世に送り出したシュレーディンガー先生である。
シュレーディンガーの猫と称されるその思考実験は、いたいけもない猫を箱に閉じ込め量子論の道具にして、「死んだかな?生きてるかな?どっちかな?」と猫の運命を蹂躙するというドSぶりを発揮して憚らない。
そうしたデンジャラスな性癖をもつシュレーディンガー先生が世に放った波動方程式というラビリンスのような数式を目の前に、幾多の学生達が涙を飲んだ事か。
かの森見先生も、猫が可哀想であると言っている。
さて冗談はここまでにして、シュレーディンガーは前述の問いに対する答えとして、いくつかの例をあげる。
一つは、粒子が絶え間なく不規則な動きをする「ブラウン運動」
もう一つは、「拡散」と呼ばれ、濃度勾配をもたらしつつもやがては一様に広がり平衡状態に達する、秩序の有り様だ。
うん、訳が分からない。
まず、この拡散は全体が平衡状態に達する前に、ある個体を見るとまったく逆の運動をするという。
これが原子レベルで起きることなので、生命体において、こうした「誤差」を小さくする必要がある。原子サイズに近ければ、こうしたこの誤差は秩序に致命的な影響を及ぼすことになる。
そうした理屈から、生命体の秩序を維持するためにも、「生物はこんなに大きい」必要があるとされている。
そして、秩序を維持するという話から、エントロピーが出てくる。
結論をいえば、生物は食物を食べる事で、エントロピー増大に対抗する力を生み出している。
さて話をはしょり過ぎて意味不明になった。
この話の展開はここで置いておいて、これを紹介している本が次だ。
"私たちは遺伝子をひとつ失ったマウスに何事も起こらなかったことに落胆するのではなく、何事も起こらなかったことに驚愕すべきなのである。"
著・福岡伸一
先ほどの本ではサイズの面から生物を見た。
本書は、そもそも生物(生命)ってなによ?という点から出発する。先に出した原子の話と同質の、根本的な問いだ。
この問いを抱え、本書は著者の過ごした研究時代を旅して、歴代の研究者達の挑戦と疑惑と隠れた栄誉をはさみつつ、その遷移をなぞりながら、問いの確信へと迫って行く。
著者が考察した内容をまとめてしまうと、次の様に言える。
生命とは何か?
それは自己複製を行うシステムであり、柔らかな適応力となめらかな復元力の大きさを備える動的な平衡で維持された秩序であり、自身がもつ時間がそこに折りたたまれて在るものである。
さあどうだ、訳分からんでしょう!俺もだ!
自己複製の話ではDNAの研究が紹介される。
ヘラクレイトスを彷彿させる動的平衡の話では、最初にあげたシュレーディンガーを発端とした秩序の話として、タンパク質の研究が紹介される。
前の本でも触れられていた生物の時間の話では、著者の研究と少年時代からくる実体験が紹介される。
これら一つ一つを本書で確かめ、著者が考察する内容をなぞることで、少しだけその意味するところに触れることが出来た。
それぞれの話は研究の遷移をおって語られる、いわば回顧録的なところがある。小難しい数式は退けられ、時に雄弁な語り口で話が進む。
それは研究に関する紹介が不十分であることを意味するのではなく、むしろそれぞれが示す生命の不思議をそこに発見する。
また、ところどころにある研究における姿勢や彼らが陥る罠、その罠にはまった野口英世のお話があったりもして、研究とはかくも地道な挑戦なのかということを垣間みる。
雑学的な要素もある前書と比較し、歴史を振り返りながら歩み、先ほどの答えに近づこうとする本書であるので、各項の紹介は伏せておく。
以上まとめると、「ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学」ではサイズの違いから、生物学の世界はこんな感じ!というトリビア的な楽しみ方ができるのに対して、「生物と無生物のあいだ」では生命への問い対する、研究の遷移を俯瞰し著者なりの答えに迫ろうとする物語を楽しめる。
そして今日のナショナルジオグラフィック日本語サイトのニュース記事にあるように、ロシア調査チームが世界で初めて、南極で最大の、地下4kmもの深さにある氷の中の湖に達した事が分かった。
これにより、太古の微生物がそこで発見されるかもしれない。
今後の調査で、生物についてまた一つ知見が広がりそうだね。どんな結果が待っているんだろう。
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