週末に宮城県は山元町でボランティアに参加してきた。
GWに友人が参加した石巻市と陸前高田市へのボランティア活動の会にお邪魔して話を聞いて以来、タイミングが合えば行きたいと思っていたボランティア。
ようやく今回参加できた。
その会でも知った事だけど、ボランティアの仕事の一つに「伝える」ということがあるのだと言う。
ニュースで知る事と、身近な人から知る事の間には、大きな差がある。
それは情報の差ではなく、"肌で知る"感覚に近いと思う。身近な人から見聞した事は、ニュースよりずっと近いところで受け取られるはずだ。
受け取り方は人それぞれだけど、少なくとも俺はその会や友人の話からボランティア参加への意識が高まったのは事実。
それと同じ様に、ボランティア活動へ貢献するためにも、俺の見た光景や感触を少しでも伝える事が出来ればなぁと思う。
日常に戻ると早速仕事に追われて、細かいところはきっと風化してしまうと思う。
だから、今書いておく事は自分のための記録でもあるんだ。
さて前置きがだらだらと続いたので、きっとこの先もだらだらと長文になりそう。
色んな理由でボランティア活動に参加できない場面が往々にしてあるけれど、3ヶ月経った現地はどうだったか。
行けない人にとって少しでも身近な光景として伝わればいいなと思い、この先を続けてみる。
(続きはタイトルをポチリ)
今回参加した活動は写真のサルベージ活動だ。
日本社会情報学会が主体で開催している「思い出サルベージ」というプログラムに参加させてもらった。
自衛隊が被災現場から収拾した写真達を分類して洗浄して番号付けして複写する。そしてデータ化された写真はレタッチされてより原型に近い状態を目指す。
今回ボランティアに参加した理由の一つにあるのは、やはり自分の目で現地を見たかったからだ。
そしてこれは活動団体からも言われていた事だけど、被災地ではカメラ撮影は遠慮すべきだ。
被災者の方々の事を考えれば、それは当然だ。見せ物じゃない。
それを念頭に置いても、でもやっぱり自分が見た光景は写真という形で残しておきたい。
写真を見ることでその時の感情を忘れずにいられるから。
そんな矛盾した気持ちを抱きながら、朝5時という時間を選んで現地入りした。
人がいるならやめておこう。もしいなければいくらか撮ろう。そんな事を思いながら。
白石ICを下りて東に進み、亘理町に訪れた。
下りてすぐは一見何事もなかったかのような街並みが続いているけど、海側に近づき景色は一変する。
最初に停車したのは阿武隈川から太平洋へ抜ける、海に面した場所。
パイプはへし折れ海の藻くずのようなものがかかっている。堤が破損した箇所には土嚢袋がおかれている。
防波堤から陸地側には住宅街が並んでいて、形を留めている家もあれば、バラバラになってしまっている家もある。
防波堤がある程度津波を防いでくれたんだろうとは言え、人が住める様な状態ではなくなっていた。
さらに橋を渡り太平洋側に近いところへ行くと、家の形も無くなる。
南下すると海側に近い住宅地があるんだけど、残っているのは瓦礫の山や家の基礎がほとんど。
それでも、所々にあった墓地にお墓が綺麗に磨かれ整列している光景が、印象的だった。
あとから知った事だけど、6月18日は震災から丁度100日目だったようだ。
早朝5時の誰もいない被災現場を前に、100日経っても巨大な力の痕跡を残す光景を目にして、ただただ圧倒されるばかり。
自衛隊をはじめ地元やボランティアの人々が瓦礫を撤去したのだろうけど、それだけじゃ消えない痕跡。
なんだろう。何も言葉がない。
その後車内で仮眠してからボランティア団体と合流。
プロの方々や企業さん、写真学生達と、その道の人ばかり。
ぽつーんとしながら、素人が来ても良かったんだよな!? と自己確認を繰り返す俺。
(最終的には良い人ばかりで、メンバーの皆様には仲良くしてもらった!)
最初に言ったように、今回参加した活動は写真のサルベージ活動だ。
各担当が割り振られ、初心者でド素人というダブル若葉マークの俺は写真の清掃、洗浄、その他諸々に専念した。
複写その他はその道の人にお任せ!足を引っ張っては意味が無い。
それでも津波の被害にあって、現地からやっと回収できた写真を取り扱うんだから緊張する。
特に辛かったのが洗浄だ。
写真は大きく分けて銀塩とインクジェットタイプのもの。
海水や泥でやられた写真達は、銀塩はその成分にあるゼラチン部分が海水やバクテリアの影響で色の層がはがれてしまうし、インクジェットのものは水との接触を短時間に抑える必要がある。
そのいずれもがそうなんだけど、状態が悪い写真は洗浄しようとすると消えてしまう。
写真に写っている方の生存は分からない。
でもこれに写っている人がいたんだという一つの証が、この写真なんだ。
水と一緒にその証が消えようとする様を見ると、ちょっとこたえる。
でもやらなければいけない写真は山のようにあって、少しでも多くサルベージしなければいけない。
丁寧にかつ多くをこなさなければいけないという、サルベージ全体を含めて簡単ではない作業だということを感じた。
洗浄された写真達は一晩おいて、乾燥させてから次の行程に入るのだ。
各人各役割を柔軟に補いながら、途中で自衛隊から追加の写真達が大量に運ばれるという場面を挟みつつ、2日間作業は行われた。
夜は露天風呂に入れた事が、良い息抜きになった。
その時にお邪魔させて頂いた、業界では有名な写真家先生(失礼ながらうとくて存じ上げなかったのだけど、、)との飲みの場で印象的だった事がいくつかある。
それは"写真が自分の記憶なんだ"ということ。
普段あまり意識していないけど、写真を見て思い出す事って沢山ある。
忘れていたようなことも、写真を見ることで当時の事が甦ってくる。
写真はそういうきっかけになる。
今回のボランティア活動のプログラム名も、「思い出サルベージ」なのは、そういう事だ。
思い出は自分の中に確かにあるけど、写真があればより強くなるし忘れてた事も思い出す。
共有もできるし、何より残るものだから。
そして、震災前のストリートビューの画像が、被災者の方にとって重要だということも知った。
なぜならストリートビューで、家がそこにあったことが分かるからだ。
これは気付かなかったし、軽くショックを受けた。
何も残らなくなったとき、どんな形であっても、そこにあったという証は重要な意味を持つ、ということを改めて感じるエピソードだった。
他にもボランティア活動が抱えるセンシティブなバランスという話も聞く事ができて、ボランティア活動の難しさを垣間みた。
そういった訳で、ボランティア活動を通じて様々な気付きを貰えたんだけど、一番印象的だったのは2日目の最後、解散後にボランティアメンバーで行ったJR常磐線の坂元駅"跡"での場面。
現地の方で、復興に尽力されている方がいて、その人が今回の団体と町との調整をしていたり、他復興活動に尽力しているのだけど、その方が先導してそこに連れて行ってくれた。
向こうから伸びているはずの線路は無くなり、崩落したプラットホームと階段がただ残っている。
このホームに立って電車を待っていた日常が、いまこんな風景に変わってしまった事。
それを思ってしまい、胸がいっぱいになった。
その方が話した内容で、3つのことが印象に残っている。
一つは、「被災者なんだと思った事は、自衛隊の仮説風呂に入った時だけ。被災者だとは思ってない。」と言っていた事。
他の場所でボランティアの話を聞いた時に、中にはボランティア支援してもらうのが当たり前の感覚になってしまう事があり、現地の人達による復興の主体性が失われる、という話を聞いた。
この言葉を聞いてそんな事を思い出していたが、それは関係なさそうだと思ったのと同時に、その強さに驚かされた。
二つ目に、「周りの人に伝えて欲しい」という事。
これは最初にも書いた事だ。被災地を見聞してきた事を伝えて欲しい、そういう想いがあるのだという。
ボランティア活動に来たくても来れない人はいっぱいいるだろうし、タイミングが合うことも難しい。
中には常に来ている人や、定期的に来ている人もいて、持続的にボランティアへ参加できるのが理想的だろうと思う。
そう思う一方で、現実として継続して参加するには努力がいる。
その努力が叶うか叶わないかは人それぞれなんだろうけど、一度でも現地へ行ったなら、周りの人に伝えて欲しい。
そしてボランティアの環が広がって欲しい。
そうした循環が、次の活動に結びつくのだろうし、活動が低下していくことの防止にもなるんだと思う。
そうやって盛り上げていけば、復興だって良い流れに乗る。伝えることには、俺自身がそうであった様に、そういった意味があるように思う。
三つ目は、「生きて欲しい。生きる術を持って欲しい。」という事だ。
当時、被災して脱力感に襲われ、何も出来なかった、ある日突然気を失ってしまう程だったそうだ。
そんな事を感じさせないほど、山元町の人達は前に進んでいる。それも笑顔で。
笑顔の下に、底はかとない悲しみが隠されているはずなんだ。
でも、そのことを微塵も感じさせない姿勢に驚く。
笑顔。
俺はどうだろう。ある日突然、全てを失ってしまったら。
生きる術は何だろう。笑顔を取り戻せるんだろうか。
そんな事を思いながら、皆と別れ、山元町を後にした。
たった2日間だったけど、今これを書きながら、濃厚な2日間だったなぁと、改めて思った。
奈良や岐阜、長野や最長距離だと福岡から(!)と、各地から色んな人達が来ていた今回のボランティア。
カメラマンの知り合いはいないので、そういった話が聞けたのも初の体験だったな。(専門用語は分からないけど!)
今回の活動は色々と初の試みなので、論文にまとめられて発表されるそうだ。
プロトタイプとして他にも展開できるような、有効なモデルになるんだろうな。
そして何よりも、このプログラムでサルベージされた写真が無事に持ち主の元に届いてほしい。
まだまだ道半ばのようなので、チャンスがあればまた参加したいし、山元町へまたお邪魔したい。
そう思う、今回のボランティア活動だった。
あ、そういえばタント君、無事に着いたかなー。心配。
GWに友人が参加した石巻市と陸前高田市へのボランティア活動の会にお邪魔して話を聞いて以来、タイミングが合えば行きたいと思っていたボランティア。
ようやく今回参加できた。
その会でも知った事だけど、ボランティアの仕事の一つに「伝える」ということがあるのだと言う。
ニュースで知る事と、身近な人から知る事の間には、大きな差がある。
それは情報の差ではなく、"肌で知る"感覚に近いと思う。身近な人から見聞した事は、ニュースよりずっと近いところで受け取られるはずだ。
受け取り方は人それぞれだけど、少なくとも俺はその会や友人の話からボランティア参加への意識が高まったのは事実。
それと同じ様に、ボランティア活動へ貢献するためにも、俺の見た光景や感触を少しでも伝える事が出来ればなぁと思う。
日常に戻ると早速仕事に追われて、細かいところはきっと風化してしまうと思う。
だから、今書いておく事は自分のための記録でもあるんだ。
さて前置きがだらだらと続いたので、きっとこの先もだらだらと長文になりそう。
色んな理由でボランティア活動に参加できない場面が往々にしてあるけれど、3ヶ月経った現地はどうだったか。
行けない人にとって少しでも身近な光景として伝わればいいなと思い、この先を続けてみる。
(続きはタイトルをポチリ)
今回参加した活動は写真のサルベージ活動だ。
日本社会情報学会が主体で開催している「思い出サルベージ」というプログラムに参加させてもらった。
自衛隊が被災現場から収拾した写真達を分類して洗浄して番号付けして複写する。そしてデータ化された写真はレタッチされてより原型に近い状態を目指す。
今回ボランティアに参加した理由の一つにあるのは、やはり自分の目で現地を見たかったからだ。
そしてこれは活動団体からも言われていた事だけど、被災地ではカメラ撮影は遠慮すべきだ。
被災者の方々の事を考えれば、それは当然だ。見せ物じゃない。
それを念頭に置いても、でもやっぱり自分が見た光景は写真という形で残しておきたい。
写真を見ることでその時の感情を忘れずにいられるから。
そんな矛盾した気持ちを抱きながら、朝5時という時間を選んで現地入りした。
人がいるならやめておこう。もしいなければいくらか撮ろう。そんな事を思いながら。
白石ICを下りて東に進み、亘理町に訪れた。
下りてすぐは一見何事もなかったかのような街並みが続いているけど、海側に近づき景色は一変する。
最初に停車したのは阿武隈川から太平洋へ抜ける、海に面した場所。
パイプはへし折れ海の藻くずのようなものがかかっている。堤が破損した箇所には土嚢袋がおかれている。
防波堤から陸地側には住宅街が並んでいて、形を留めている家もあれば、バラバラになってしまっている家もある。
防波堤がある程度津波を防いでくれたんだろうとは言え、人が住める様な状態ではなくなっていた。
さらに橋を渡り太平洋側に近いところへ行くと、家の形も無くなる。
南下すると海側に近い住宅地があるんだけど、残っているのは瓦礫の山や家の基礎がほとんど。
それでも、所々にあった墓地にお墓が綺麗に磨かれ整列している光景が、印象的だった。
あとから知った事だけど、6月18日は震災から丁度100日目だったようだ。
早朝5時の誰もいない被災現場を前に、100日経っても巨大な力の痕跡を残す光景を目にして、ただただ圧倒されるばかり。
自衛隊をはじめ地元やボランティアの人々が瓦礫を撤去したのだろうけど、それだけじゃ消えない痕跡。
なんだろう。何も言葉がない。
その後車内で仮眠してからボランティア団体と合流。
プロの方々や企業さん、写真学生達と、その道の人ばかり。
ぽつーんとしながら、素人が来ても良かったんだよな!? と自己確認を繰り返す俺。
(最終的には良い人ばかりで、メンバーの皆様には仲良くしてもらった!)
最初に言ったように、今回参加した活動は写真のサルベージ活動だ。
各担当が割り振られ、初心者でド素人というダブル若葉マークの俺は写真の清掃、洗浄、その他諸々に専念した。
複写その他はその道の人にお任せ!足を引っ張っては意味が無い。
それでも津波の被害にあって、現地からやっと回収できた写真を取り扱うんだから緊張する。
特に辛かったのが洗浄だ。
写真は大きく分けて銀塩とインクジェットタイプのもの。
海水や泥でやられた写真達は、銀塩はその成分にあるゼラチン部分が海水やバクテリアの影響で色の層がはがれてしまうし、インクジェットのものは水との接触を短時間に抑える必要がある。
そのいずれもがそうなんだけど、状態が悪い写真は洗浄しようとすると消えてしまう。
写真に写っている方の生存は分からない。
でもこれに写っている人がいたんだという一つの証が、この写真なんだ。
水と一緒にその証が消えようとする様を見ると、ちょっとこたえる。
でもやらなければいけない写真は山のようにあって、少しでも多くサルベージしなければいけない。
丁寧にかつ多くをこなさなければいけないという、サルベージ全体を含めて簡単ではない作業だということを感じた。
洗浄された写真達は一晩おいて、乾燥させてから次の行程に入るのだ。
各人各役割を柔軟に補いながら、途中で自衛隊から追加の写真達が大量に運ばれるという場面を挟みつつ、2日間作業は行われた。
夜は露天風呂に入れた事が、良い息抜きになった。
その時にお邪魔させて頂いた、業界では有名な写真家先生(失礼ながらうとくて存じ上げなかったのだけど、、)との飲みの場で印象的だった事がいくつかある。
それは"写真が自分の記憶なんだ"ということ。
普段あまり意識していないけど、写真を見て思い出す事って沢山ある。
忘れていたようなことも、写真を見ることで当時の事が甦ってくる。
写真はそういうきっかけになる。
今回のボランティア活動のプログラム名も、「思い出サルベージ」なのは、そういう事だ。
思い出は自分の中に確かにあるけど、写真があればより強くなるし忘れてた事も思い出す。
共有もできるし、何より残るものだから。
そして、震災前のストリートビューの画像が、被災者の方にとって重要だということも知った。
なぜならストリートビューで、家がそこにあったことが分かるからだ。
これは気付かなかったし、軽くショックを受けた。
何も残らなくなったとき、どんな形であっても、そこにあったという証は重要な意味を持つ、ということを改めて感じるエピソードだった。
他にもボランティア活動が抱えるセンシティブなバランスという話も聞く事ができて、ボランティア活動の難しさを垣間みた。
そういった訳で、ボランティア活動を通じて様々な気付きを貰えたんだけど、一番印象的だったのは2日目の最後、解散後にボランティアメンバーで行ったJR常磐線の坂元駅"跡"での場面。
現地の方で、復興に尽力されている方がいて、その人が今回の団体と町との調整をしていたり、他復興活動に尽力しているのだけど、その方が先導してそこに連れて行ってくれた。
向こうから伸びているはずの線路は無くなり、崩落したプラットホームと階段がただ残っている。
このホームに立って電車を待っていた日常が、いまこんな風景に変わってしまった事。
それを思ってしまい、胸がいっぱいになった。
その方が話した内容で、3つのことが印象に残っている。
一つは、「被災者なんだと思った事は、自衛隊の仮説風呂に入った時だけ。被災者だとは思ってない。」と言っていた事。
他の場所でボランティアの話を聞いた時に、中にはボランティア支援してもらうのが当たり前の感覚になってしまう事があり、現地の人達による復興の主体性が失われる、という話を聞いた。
この言葉を聞いてそんな事を思い出していたが、それは関係なさそうだと思ったのと同時に、その強さに驚かされた。
二つ目に、「周りの人に伝えて欲しい」という事。
これは最初にも書いた事だ。被災地を見聞してきた事を伝えて欲しい、そういう想いがあるのだという。
ボランティア活動に来たくても来れない人はいっぱいいるだろうし、タイミングが合うことも難しい。
中には常に来ている人や、定期的に来ている人もいて、持続的にボランティアへ参加できるのが理想的だろうと思う。
そう思う一方で、現実として継続して参加するには努力がいる。
その努力が叶うか叶わないかは人それぞれなんだろうけど、一度でも現地へ行ったなら、周りの人に伝えて欲しい。
そしてボランティアの環が広がって欲しい。
そうした循環が、次の活動に結びつくのだろうし、活動が低下していくことの防止にもなるんだと思う。
そうやって盛り上げていけば、復興だって良い流れに乗る。伝えることには、俺自身がそうであった様に、そういった意味があるように思う。
三つ目は、「生きて欲しい。生きる術を持って欲しい。」という事だ。
当時、被災して脱力感に襲われ、何も出来なかった、ある日突然気を失ってしまう程だったそうだ。
そんな事を感じさせないほど、山元町の人達は前に進んでいる。それも笑顔で。
笑顔の下に、底はかとない悲しみが隠されているはずなんだ。
でも、そのことを微塵も感じさせない姿勢に驚く。
笑顔。
俺はどうだろう。ある日突然、全てを失ってしまったら。
生きる術は何だろう。笑顔を取り戻せるんだろうか。
そんな事を思いながら、皆と別れ、山元町を後にした。
たった2日間だったけど、今これを書きながら、濃厚な2日間だったなぁと、改めて思った。
奈良や岐阜、長野や最長距離だと福岡から(!)と、各地から色んな人達が来ていた今回のボランティア。
カメラマンの知り合いはいないので、そういった話が聞けたのも初の体験だったな。(専門用語は分からないけど!)
今回の活動は色々と初の試みなので、論文にまとめられて発表されるそうだ。
プロトタイプとして他にも展開できるような、有効なモデルになるんだろうな。
そして何よりも、このプログラムでサルベージされた写真が無事に持ち主の元に届いてほしい。
まだまだ道半ばのようなので、チャンスがあればまた参加したいし、山元町へまたお邪魔したい。
そう思う、今回のボランティア活動だった。
あ、そういえばタント君、無事に着いたかなー。心配。
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