これがニーチェだ

"ニーチェは世の中の、とりわけそれをよくするための、役に立たない。どんな意味でも役に立たない。"

これがニ-チェだ (講談社現代新書)

著者:永井 均

ニーチェ本2冊目。
スピノザを読んだ時に多少の既知感を受け取り、それをニーチェで再び探した。
そしてそこにスピノザの思想が漂う(ように見える)ことを見つけた。

この本の面白いところは、冒頭で取り上げたように、ニーチェは役に立たないと言い放つ姿勢だ。
著者は、ニーチェは役に立たないと言う。反社会的な思想家であったとし、しかしそれだからこそ、ニーチェは素晴らしいと語る。
ここにすでにニーチェ的思考があるように思うのだが、それは置いておく。

著者は他のニーチェ解釈者は、ニーチェ真理の恐ろしさを体よくごまかして、それを骨抜きにしていると批判する。
かくして"永井的ニーチェ"の案内が始る。案内されたものを、俺メモに。

(続きはタイトルをポチリ)



著者はニーチェが思想した空間を、3つに分ける。

1.第一空間 - ニヒリズムとその系譜学
2.第二空間 - 力への意志とパースペクティヴ主義
3.第三空間 - 永遠回帰=遊ぶ子供の聖なる肯定

これは「ツァラトゥストラはこう語った」の「三段の変化」からくるものだ。
「私はあなたがたに精神の三段の変化を語ろう。いかに精神が駱駝となり、獅子となり、最後に子供となるか、を。」
この先は長いので引用を省くけど、著者が語る様に読後に読む事で一層の理解ができるよう、本書は構成されている。

本書の構成を借りて、以下に俺メモをすすめる。

1.第一空間
「なぜ人を殺してはいけないのか」と問われたらどう答えるだろう。
端的に答えると、「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、そうすべきだ」
ニーチェは道徳的イデオロギーを批判する。相手の事を思ってとか、とにかく殺してはいけないんだとか、およそ道徳的と言われるものを批判する。
道徳を問題にすること自体が不道徳となることへの批判、道徳への服従は君主への服従と同じでそれ自体ではなんら道徳的ではない、道徳的勝利の実現は結局のところ不道徳な手段によって得られる、と批判する。

「われわれの真理の基準はけっして道徳ではない。われわれはむしろ、ある主張が道徳によって根拠づけられたものであることを証明することによって、高尚な感情に駆り立てられたものであることを証明することによって、それを反駁するのである。」

誇りからだとか道徳からだとか、そう語られることに"嘘"を感じ取る。
真実を前にして誠実さと嘘が対立するのがこの第一空間であり、そしてその先にあるのは"神の死"だ。

「神がどこへ行ったかって?おれがおまえたちに教えてやろう!われわれが神を殺したんだ。おまえたちとおれがだ!われわれはみんな神殺しの犯人なんだ。」

本来の神(神性一般)が、キリスト教とその道徳によってなぶり殺しにされてしまったという嘆き。著者はそう言う。
キリスト教の神は死んだ。しかし古い神も死んでいた。
そこにあるのはニヒリズム。すべては無意味であること。
では神はなぜ死んだのか。
ニーチェは債務ー債権関係の構図から、キリスト教的「原罪」を見た。
やましい良心が負債を罪として内面に取り込む様になるとき、人間は神に対して償う事ができない負債を負った罪人となる。
キリスト教の磔刑により、債権者の方が債務者のために自分を犠牲にすること。
僧侶は生の否定という創造的な力をこの世の現実を否定する意志と結びつけて超越的な背後世界を捏造し、その観点からこの世の生に意味を与えた。新たな、そして強力な道徳空間を作り出してしまったのだ。
ニーチェはそこに嘘を感じ取り、ルサンチマンを見い出した。
しかしそれだけでは神は死んでいない。
キリスト教の神が死んだのは、その真理への誠実さからである。
キリスト教によって鍛えられた真理の意志。この真理への追究が、ついにはキリスト教の虚偽を暴き、打ち倒した。
そこには禁欲主義的理想の無への意志が、真理への意志があり、力の凌駕という、力への意志の自己貫徹がある。
こうして無神論が到来する。
そしてニーチェはこう問う。

「真理への意志そのものは何を意味するか?」

そこに漂うのはニヒリズムだ。かくして「真理」として現れていた「神」もまた死ぬ。
なぜ神は死ぬのだろうか。著者はこう考えた。

"もともとほんとうは死んでいたからである。もともと神が死んでいたからこそ、いま神が死ぬのだ。まずは、それが無である事によって神が死に、つぎにその無が知られる事によって、神が死ぬ。"

全体を通したニーチェのニヒリズム概念の外見上の多義性は、こうした構造に由来すると考えた。
神は死んだ。こうして本は第二空間へ移行する。

2.第二空間
第二空間には「力」が存在する。著者は言う。
"力という概念は、「パースペクティヴ」と「解釈」という2つの概念と関連している。
自分のパースペクティヴ(観点)から他の全てを解釈し、意味づけ、位置づけてしまえる場所に自分が立てるというのが、「力」の原イメージであろう。そして、人間は常にそのような解釈視点に立つ事を求めて生きている。
(中略)存在するのは、じつは力への意志という一種類のものだけなのである。"


「存在するのはただ不道徳と意図と行為だけである」

そうニーチェが言うのは、ニーチェがキリスト教的ニヒリズムの系譜学探求から、世界を別様に解釈し無を欲するという、力への意志の逸脱事例の研究から、すべては力への意志であるという真理を彼は学んだからであると、著者は言う。

自分が真の嘘つきであることをどこまでも誠実に認め続ける徹底的な嘘つき。徹底的に誠実な欺瞞者。
これが第一空間の到達点であり、第二空間の出発点であるとし、案内は続く。

「世界を解釈するするのはわれわれの欲求だ。われわれの衝動とその衝動のおこなう受容と拒絶だ。すべての衝動は一種の支配欲であり、それぞれの自分のパースペクティヴを持ち、自分以外のすべての衝動に対してそれを規範として押しつけたがている。」

ただ解釈がある。そして力が。
しかし本質的にはこれはルサンチマン的なのだ。
著者は力への意志説に一言こう批判する。

"力への意志は力を語る。力はただ示される。"

しかしここにあったのは自らと闘ったニーチェという側面も持つ。
背後に回り、そして背後に回られる、という立ち会いを演じているようにも見える。

そして第三空間へと続くのだ。

3.第三空間
ここには永遠回帰が現れる。悪魔がそれを、こう告げる。

"もしある日あるいはある夜、おまえのこのうえないない孤独の中に悪魔が忍び込み、こう告げたとしたらどうか。
「お前が現に生きており、また生きてきたその生をおまえはもう一度、いやさらに無限回にわたって、生きねばならぬ。そこには何ひとつとして新しい事はなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思いとあらゆるため息、おまえの生の言い尽くせぬ大小すべてのことが、おまえに回帰して来ねばならぬ。しかもすべてが同じ順序と脈絡において」(略) "


ここでニーチェは、生が回帰するとしても後悔しないように生きよ、などと説教たれてるのではないし、生の回帰を信じればよく生きれるなどのふぬけた話をしているわけではない、と著者は断じる。
以前読んだ竹田氏の本に対する批判だろうか。

そして意識が否定される。ちょっと長いけど本書から引用すべきところと思われるので続ける。
"「力」が世界を解釈する力を含むまでに拡大変形されることによって、第二空間は第一空間を包み込んだのであった。
第二空間を駆動してきたこの「根本信念」を否定するところから、第三空間が始るのである。
力の感情は、いわば一種の錯覚なのであり、あの、駱駝から獅子へ、「汝なすべし」から「われ欲す」へ移行した人間が、ついに神の位置に立った、転倒された神学空間にほかならないのである。
ニーチェは、このような意志をさらに進めて、ついには意識そのものの否定にいたる。
「すべての完全な行為は、まったく無意識的であって、もはや意志されてはいない。意識は人間の不完全な、しばしば病的な状態を表現する。」"


ヘーゲル弁証法があるように、対立がここで生じる。

"人間あるいは生命体が、世界に対して、自分の生にとって必要で有益な解釈を押し付けるという、本質的に奴隷的な第二空間的な描像は、ここできっぱりと否定されている。解釈する主体、意味付ける主体という考え方が否定されているのだ。"

そしてそこに、超人概念が、危うさと共に起こる。

"彼は空間を越えて行く。だから彼は肯定するための否定であり、意志をなくすための意志であり、もはや何も目指さないことを目指す、矛盾した形象であらざるをえないのである。"

悪魔の告げを聞き、ツァラトゥストラははじめに空しさを覚えた。しかし、そして彼は救済される。
偶然と必然の一致から。それはこうだ。

"ただ一回しか起こらない出来事は必然を語るべき根拠がどこにもない。すべての出来事は偶然である。
部分的には必然性を宿していても、事象連関の型がいま全て現に成り立っていること自体は、究極的には偶然である。
いまある生があるのは、究極的に偶然であり、たどっていけばどこかで必ず、ただそうなっているとしか言いようがないところまで行き着く。その必然性の成立自体が偶然なのである。
だがもしそのすべてが繰り返すとしたら。
一回性の諸事象の全てが、その偶然性を維持したまま必然と化す事になる。"


永遠回帰は、全偶然をその偶然性を維持したまま必然化する。ニーチェはそれを体験した。
森羅万象は「偶然=必然」として、それ自体として光り輝くものとしてあるのだ。

存在するすべてが肯定される。
実はニーチェは最初に、全体、統一性、なにか一つの力、などの全体に対する畏敬の念を捨てなければならないと語っていた。
しかしいまここには全体的肯定の思想がある。これは神の復活の兆しにあたる。
第一空間で死んだ神がいまここで復活しようとしている。しかしこのこと自体が、ニヒリズムでもあるのだ。

"人生の価値は何か有意義なことを行ったとか、人の役に立ったとか、そういうことにあるのではない。むしろ起こった通りのことがおこったことにある。他にたくさんの可能性があったはずなのに、まさにこれが私の人生だったのだ。
偶然であると同時に必然であるこの剥き出しの事実性の内にこそ、神性が顕現していおり、そこにこそ神が存在する。"


そしてニーチェは「然り」と発して、この永遠回帰に祈りを、運命愛を込めたのだった。

著者はこう言う。
"もはや他律でも自律でもない、無垢であり、忘却であり、遊戯である「黄金の自然」がそこに現れる。"

永遠回帰について印象的な一節があった。
「ツァラトゥストラはこう語った」から、永遠回帰を動物達はこう歌う場面が本書で紹介されている箇所だ。

"すべては行き、すべては帰り来る。存在の車輪は永遠にまわる。すべては死に、すべてはふたたび花開く。存在の年月は永遠にめぐる。
すべては壊れ、すべては新たにつなぎ合わされる。存在の同じ家が永遠に建てられる。すべては別れ、すべてはふたたび挨拶しあう。存在の円環は永遠に自分で忠実である"


といった具合だ。
スピノザ本を読んだあとだからか、スピノザと重ねて見てしまうし、重なる部分が多くて驚く。
(ニーチェも、ズピノザを知って驚いたようで、それはスピノザ本で紹介されている。)
道徳に感じていた嘘もそうだし、力への考えもそうだし、世界がそうある、という点も重なる。
スピノザはそれを幾何学的証明で主観を切り取ったのに対して、ニーチェはニーチェ的思想で鋭く洞察した。
でもニーチェは孤独だった。スピノザには神がいたけどニーチェには神はいなかった。
社会的であろうとなど考えず、徹底的にニヒリズムを貫徹して、彼だけの道を進んだ。
もうそれは彼だけの道であるし、他人が通った道でもなければ、世間一般のいわゆる社会的だとか道徳的な人が通る道でもない。著者が冒頭で、ニーチェを骨抜きにする、というのはそういう意味だろう。

ニーチェは俺にとって、やはりどこか魅力的だ。
小説だと東野圭吾の「さまよう刃物」に被害者の告白を見たり、三島由紀夫の「仮面の告白」に欺瞞である告白を見るように、ニーチェのニヒリズムに生の告白を見る。
「あるがまま」というか、剥き出しの現実というのに魅力を感じるのかもしれない。

本書を読んでいて、ふとバカボンのパパを思い出す場面があった。
永遠回帰で、それ自体は、存在する全てはそれでよいとすること。
「これでいいのだ」
赤塚不二夫のバカボンのパパの言葉が、なぜか湧き出て来た。うーむ、次はバカボンでも読むか、、?

哲学は人生に必要などないだろうし、およそ時間の浪費かもしれない。
それでも俺にとって、妄想好きの俺にとっては、どこか魅力的な領域だ。
まぁ入門書ばかりで本書を手に取ってないので語る事も憚れるけど。
いまはその輪郭をなぞるように周りをぶらぶらしているけど、その内さらに興味を引き立てられる人物や考えを発見したら、本編を手に取ってみたい。ニーチェはその内の1人だ。
でも今は、もうちょっと輪郭をなぞっていたいんだ。

入門書ということで、解説者が変われば内容も変わるだろう。ニーチェも言っている通り、あるのは(その人の)解釈なのだから。
そういう意味で、前回読んだ竹田氏のニーチェ入門のエントリーはまだ見返していない。
当時どう読んだか、どう思ったか。見返すとき楽しみだ。

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